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2011/05/29

嫌になるほど入り組んだ話である。

福島第一原発1号機への
海水注入一時中断をめぐって

①5月2日の参議院予算委員会における政府発言や
その後の東京電力による公表データにより
「地震翌日の3月12日の原子炉を冷やすための
海水注入作業に55分間の中断があった」

という発表があり、

②その説明として
政府から5月21日に
「内閣府原子力安全委員長斑目氏から
『再臨界の可能性がある』
との意見があった」と政府から発表があった。

③海水注入一時中断をめぐる
判断の是非、妥当性が問われているなかで
同日、5月21日には当の斑目氏が
『再臨界の恐れなど言うはずがない』
と否定。

④翌日22日に、当初の斑目氏の発言を
『再臨界の可能性はゼロではないと言った』
とすることで政府と斑目氏が合意し文書を訂正する。

⑤これについて斑目氏は24日
『学者は、可能性が全くない時以外は
ゼロではないという表現はよく使う。
可能性がゼロではないと言ったのは
事実上ゼロだという意味だ。

注水はやめたほうがいいとは
絶対に言っていない』と釈明している。

⑥最終的に5月26日時点において
東電から「実際には現場判断で注水を
継続していたことが判明した」
という発表があり、つまり結局のところ最終的に
『一時中断自体がなかった』ということで
一連の海水注水一時中断問題については
一応の「決着」ということになりそうである。

⑦政府は当初の参議院での答弁の内容とは異なり
現在は、
「そもそも海水の注入についても停止についても
知らなかった。あくまで東電の独自の判断であった。
(いやでもそもそも翻って『停止自体がなかった』)」

と、「知らなかった」「知らされていなかった」
という立場を固持するようになっている。

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はぁ…。
すいません。あまりにも情報が錯綜していて
わけがわからなくなっていたので一応の「結論」が
出たところでここまでの流れを簡単に整理していおきたい
と思ったのですが、どうまとめてもやっぱり
わけがわからないですね。

問題を整理するために
あえて細かな固有名詞、役職等は省いておりますが
上記の流れについては新聞やネットニュースなどで
今でも確認できる基本的には「事実そのまま何があったか」
を記しただけのものです。
「3月12日に実際に現場で何があったか」という事実ではありません。
「5月2日以降にこの問題についてどういう立場の人が何を言ったか」
ということについての事実です。

「ゼロではないはゼロだということだ」という斑目発言と
二転三転したうえで最終的には
「中断自体がなかった(そのことを示すデータはない)」
という決着というどこまでいってもわけのわからない話しか残らず、
何を信じていいのか、誰の言葉なら信用できるのか、
しかも翻ってどんどん
「あった」とされていた
そもそもの論議の前提となっていた事実(であったはずのこと)」が
「なかったこと」になったり、言ったことが言ってないことになったり
言い方がこうだった、そういう意味で言ったわけではないと後から
どんどん訂正が入ったり、炉心が爆発するかしないかという
まさにリアルタイムの危機的状況における判断を行うべき論議の
なかで専門家として政府に意見を伝える立場の人が
「可能性はゼロではない(でもホントウはゼロという意味を言外に読みとってね)」
と言うことの意味など、いろいろなことを考えさせられます。

「言わなかった」
「知らなかった」
「聞かなかった」
「ゼロではない」
「中断自体なかった」

言葉は信用できない、ということだけが
はっきりと浮き彫りになってきます。
いえ、もちろん「言葉」だけではありません。

○○は信用できない。

○○のところには何を入れても成立しそうな気がします。
「東電は信用できない」
「政府は信用できない」
「マスコミは信用できない」
「管さんは信用できない」
「(本店の指示を無視して注水を続行した)現場は信用できない」
「情報は信用できない」
「言葉は信用できない」
「『事実』(とされるもの)も信用できない」

「人間は信用ができない」

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人間が信用できない以上
自分だって信用ができません。
記憶も、判断も、認知も、嘘をつきます。

何が正しくて何が安全であるのかも
分からず、誰の言うことなら間違いが
ないということもまったく言えそうにありません。

「安全」基準も「風評」被害も
根拠となるべきデータやその実態は
明らかにされずにごく常識的なまともな
説明もされないまま言葉やイメージだけが
先回りして流布されようとしている気がします。

何も信用ができないなかで、でもしかし、
私たちは日々を生活していかなければなりません。
家族や子どもの安全や生命も守らなくてはなりません。
日々何かを、
一秒ごとに選択し判断し、瞬時に取捨選択しながら
今も生きています。
現地では言葉であれこれ言わなくても既に力強く
実直に、そしてにこやかに「生活」が営まれていました。 

 
 
 
『現代詩手帖』 5月号の特集は
「3・11 東日本大震災と向き合うために」でした。
『短歌研究』 7月号の特集は「ことばは無力か」です。

私自身が言葉の世界の住人でもあります。
6月4日に予定している
「未来彗星集 神戸歌会」におけるテーマは
「震災の歌を読む(※「詠む」ではありません)」です。

言葉のこと、言葉じゃないこと、
自分にできること、できないこと、
できないとあきらめたくないこと
できるとおごりたくないこと、
考えても考えても
答えの出ないことばかり
でもやっぱり考えている気がします。

基本的には、ぼく自身が言葉に対しても
言葉以外のことに対しても今非常に懐疑的になっています。

そのなかで、でも、自分の言葉が信頼できないのなら
考えつくしてその精度を上げ、自分の言葉を自分で引き受けること、
何かをしたいという気持ちがあるなら、自分にできることが何かを
謙虚に見極めそのうえで「やる」こと。動くこと。

私は(誰もが)誤りや考え違いをおかさないような特別な人間ではなく
ここには困った時に嘆いていれば誰かが何とかしてくれるような
ドラえもんもいない。

これが絶対に正しい、間違いがないというような正解なんかなくても
とにかく「動く」しかないのだ。歩き続けるしかないのだ。
正解の分からないなか、
震えながらであっても
あるいは懐疑しながらであっても
とにかく何かを選ばなければならないのだから。
選ばないということもまたひとつの回答でしかなく
そうであるならば、選ぶにせよ選ばないにせよ
その選択においてせめて主体的でありたいと思う。

何もしなければ何もはじまらないのだ。

日常はつながっている。

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海を見て教室を見て空を見て校舎の前の桜を見ました (2011.5.21 瀬波麻人)
 
 
 

無事自分のやるべき仕事を果たしてまずは神戸に帰ってきました。
現地でお世話になった方たち、
道中の灯りをともしてくれたたくさんの人たちありがとうございました。
どういうかたちになるかはわかりませんがまた行きます。

そのためにもそれまでまずは日常をがんばります。
 
 
桜はしっかりと根を張って立っていました。
 
 
 

2011/05/29 11:10 | senami | No Comments