懐かしい匂いがして振り返ると、妻が髪を結っている最中だった。
ずぼらなのはイヤ、だらしないのが大嫌い。そう公言してはばからない彼女はいつでもぴっちりと長い髪をアップにして纏めている。いつも見ている姿なのに、今日に限ってこの匂いがするのはなんでなんだろう、と不思議だった。香水とは違う。ルームフレグランスとも違う。そんな人工的な香りじゃなくて、もっと根本的に記憶を揺さぶってくるような微かな匂いだ。
香りの出所を探して視線をさまよわせている僕に、妻は少し笑って「これ?」と小さな瓶を指差した。黄色いラベルの貼られた、化粧台よりは実験室にでもありそうなガラスの瓶。蓋をあけると、夏みたいな匂いが立ち上る。蓋をあけたまましげしげと見入っていると、手早く髪をまとめ終えた彼女がするっと隣に滑り込んで来た。
「貰い物なの、それ。髪にいいっていうから使ってみたんだけど」
「椿油?」
「うん。最近じゃ滅多に見ないよね」
でもなんか懐かしかったからさ、と妻は猫のような仕草で台所のほうへ消えて行った。
この匂いを最後に嗅いだのはいつだっただろう。
まだ僕が小さかったころだ。夏の日。蝉の声。じりじりと熱を持つ縁側で、僕はアイスを食べながら支度をする母を見ている。丈の短い甚平から膝小僧が見えて、ぷらぷらと足を泳がせた。鏡台の前で髪をとかす母。祭りの日だった。藍の浴衣をぴちっと着て、いつもはひとつに束ねている髪を複雑な形に結いあげている。手元にはこの瓶があった。見慣れない小瓶に興味を覚えて手を伸ばしたら、ぴしゃりと叩かれたことを覚えている。白い手だった。その甲からも、かすかに甘いような苦いような、髪油の匂いがした。
――そうか。あれはそんなに前のことだったのか。
僕が小学校を出た年に東京に引っ越してきて、縁側も椿油のことも忘れていた。それで別に不都合もなかった。なのに、記憶の中の母と妻が同じ香りを纏っているのがなぜか妙に嬉しかった。知らなかった。僕はマザコンだったんだろうか?
「あのさ、これ誰から…」
「お義母さん。昨日近くまで来たからって」
どうしたの?と聞く妻の顔は、あの日僕の手を叩いて目を細めていた記憶の中の母に似ている。
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花言葉:想い出、気品
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。