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皆さん、おはようございます。
セヴィリアの理髪師ってどんなオペラだと思っておられますか?
少なくとも、悲劇だと思って観ていらっしゃる方はおられないと思いますが、
さりとて、吉本新喜劇も真っ青のドタバタ喜劇ではないことも明白です。
オペラ・ブッファというジャンルだという認識もあるかと思いますが、
ある源泉資料にはドランマ・ジョコーゾとも書いてあります。
これは、かのモーツァルトによる「ドン・ジョヴァンニ」も同じです。
言葉の解釈には様々あるものの、
少なくとも、バカバカしいお笑いを一席、というのでないことは確かです。
つまり、笑いをとるためのものではないということです。
言い換えると、お客に笑ってもらうことが目的の作品ではない、ということなのです。
このオペラが作曲されたのは1816年、
ちょうど200年前のことですが、
その時にはこの話の続編、モーツァルトの「フィガロの結婚」は
30年前に作曲されていたわけですし、
1790年代にはボーマルシェは「フィガロ」の続編となる、
「罪ある母」を書いていたわけですから、
ロッシーニにしろ、台本のステルビーニにしろ、
この時結婚した伯爵夫妻が、後々どんな夫婦関係を築くのか、
断片的知識であるとしても知ってはいたことと思います。
しつこいようですが、この2、3年後、
フィガロがスザンナと結婚する段になって、
伯爵夫妻にはその後20年余りに渡る亀裂が決定的となり、
数年の間にロジーナがケルビーノの子供を産むことで、
20年という長い長い冬の時代が夫妻に訪れるわけです。
その前日譚である「セヴィリアの理髪師」において、
ロッシーニが笑い追求の作品を作るとは到底思えません。
そしてロッシーニたちがなにを考えていたにせよ、
私はあくまでも「フィガロ」や「罪ある母」の前日譚として捉えます。
従って、笑いをとるための演出はしません。
しかし、稽古段階で発見できた、「あるある的な笑い」は、
人間の本質に迫ることができる現象なので、
大いに歓迎したいところです。
見た目に普通っぽいと思いますが、
このオペラをドタバタ喜劇と思っておられる方には、
そうでないことが斬新に映るかもしれません。
一番大事にしたいのは、あくまでも
アルマヴィーヴァ伯爵と、ロジーナとの純愛物語です。
その純愛のために、20年以上も夫妻が苦しむことになる、
まさにその序章がこの「セヴィリア」なのです。
ロジーナに与えられた追加アリアは、
作品内では最後の伯爵による大アリアと対になっていますが、
「フィガロ」の3幕のアリアDove sonoに繋がる作品だとも考えています。
これらを達成するために、
バルトロの扱いも、そうそうコミックにするわけにはいきません。
彼にはあくまでも、壁として立ちはだかっていただきたいのであって、
愚か者がみんなの笑いものにされるのではなく、
恐ろしい壁だったものが、最後には笑われる立場に追い込まれ、
その屈辱感が「フィガロ」での登場に現れねばなりません。
演者の皆さんには、お客様をして、
「フィガロも観てみたい」と思わしめる演唱を期待したいと思います。