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約束をしていた友人が体調を崩し、予定がぽかんと空いてしまった。久しぶりに飲もうと約束していたのだったが、仕方ない。この年齢になると急なキャンセルもよくあることだ。
家に帰ってもよかったのだが、外に出たいという気持ちもあってそのまま外に出ることにした。
向かったのは独身のころによく通っていたバーだった。繁華街の裏通りにある店なのだが、穴場らしくほとんど客を見かけたことがない。マスター一人でグラスを拭いているのが似合うような、そんな小体の店だ。
20代の頃はここに来るたび、背伸びした気分になった。お洒落で、粋で。マスターは子どもでも子ども扱いしないような人だったから、ここにいる時間だけは青二才でも東京という街に馴染んだ大人ように錯覚させてくれる、そんな場所だったのだった。
「おや、久しぶりでしたね」
ドアを開けると、マスターは驚きもせず迎えてくれた。案の定、客はまだ誰もいないようだ。あの頃よく座っていた右端の席に座を占め、おしぼりと共に出てきたビールを飲んだ。
「覚えていてくれたんだ。嬉しいね」
「そりゃあ、昔は何度も来てくださったから。お元気そうで何よりです」
やめちゃったかと思った、という私の言葉にマスターは変わらない微笑みで答えた。
まだ若造だったときにはずいぶん年上に見えたが、もしかしたらそうでもなかったのかもしれない。あの頃はほとんど愚痴を聞いてもらうために通っていたようなものだった。そして、つまらない自慢も。私の言葉を否定せずに聞いてくれたマスターは、今の私と同世代くらいに見えた。
「マスターはこの店をやって何年になるの?」
二杯目にはジンのカクテルを頼むことにする。慣れた仕草でスピリッツを選んでいたマスターは、シェーカーに液体を混ぜながら首を傾げた。キン、と涼しい音と共にカクテルグラスに注ぎ入れると、アマレットらしき優しい香りがふわりと上った。
「何年だったかな。歳のせいか、もの忘れが激しくて」
「嘘でしょう。本当は私とそう違わないんじゃない?」
「ご想像にお任せします。これはオリジナルのカクテルですが、私から再会を祝して」
礼を言ってグラスに口をつける。口当たりは甘く、とろとろとした飲み口だ。初めて飲む味だが、なぜか懐かしいような気持ちになった。
「おいしい。レシピは秘蔵だったりする?」
「いいえ。桃のリキュールを使っています。ただ、配合は秘密」
「それはそうだ。名前を聞いてもいいのかな」
「……としようかと思ってます」
聞き取りそびれ、私はもう一度耳を傾けたが、マスターは答えなかった。十分伝わったでしょうと言う顔をされたから、はっきりと質問するのは無粋な気がした。
「ここにいるとね、時間の流れがあいまいになるんですよね」
お客さんもそうでしょう、と言われ、そのとたん私は20代の頃の、まだ血気盛んでなんでもっできるような気がしていたころの自分に戻った。仕事に迷い、恋を失ってばかりいた、けれど若くて未来が今日の続きであると無条件に信じられるような気持ちになった。マスターはにこにこ笑っている。その笑顔にほんの少しの苦さが滲んでいることが、直感的に分かった。
「みんな欲しがってますけど、若さっていったいなんでしょうね」
私は答えない。会計を払って外に出た。足がむずむずして、今すぐに何かをしなければならない、そして出来るような気がしていた。