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彼岸を過ぎて数日、ようやくとれた休みを使って温泉に行くことにした。
都内では正月も盆もない。まして、サービス業ならなおさらだ。
先週の大型連休は物凄い人出だった。上階で開催していた物産展の開催もあって売上もあがったが、疲労もかなり溜まっていたのだろう。そう零すと、先に休暇を取っていた同僚がおススメだという旅館を教えてくれた。聞き覚えがあるから、きっと有名な宿なんだろう。ダメ元で電話してみたら、平日ということであっさりと予約が取れた。
どこにも行くつもりはなかったが、これも何かの縁なのかもしれない。
温泉地へ向かう電車はのどかな田園風景を貫くように続いていた。まだ刈り取られていない稲が柔らかな薄茶色に色づいていて、風が吹くとふわりと揺れた。どこまでも続く黄金色と、遠くに混じる山の緑。田舎を持たない俺はそれだけでも珍しくて、持ってきた文庫本を一度も開かずに外をぼんやり眺めていた。
旅行なんて、いつぶりだろう。
「あなた、全然連れて行ってくれなかったもんね」
瞬きすると、目の前に座っていた妻が呆れたような顔をしていた。お気に入りのニットとワンピース。確かにどこにも連れて行かなかったな、と思いながら仕方ないだろうと言った。妻の仕事とは休みが合わない。いつもそれでケンカになった、と俺は景色を眺めているフリをした。
「見事なもんだなあ」
そうね、と妻は言う。一緒に車窓を眺めていると、ずいぶん前からこうやって旅をしているような気がした。現金なものだ。今朝まで、高層ビル群がどこにいても視界に入る場所にいたのに。
「あ、見て見て。あれはなに?」
指さした先には赤い色彩が群れるように固まっていた。燃えるような色彩が、黄色と緑の中で目立って点在している。田圃の脇に植えられているのが、稲の額縁みたいにも見えた。
「彼岸花だろう。時期だから」
「ああ、そうか。お盆もとっくにすぎちゃったもんね」
そうだよ、と答えてから、かすかに不思議な気がした。何かが頭の隅に引っかかっている。
「おまえ、盆の時って家にいたか?」
「いたわよ。あなた気付かなかっただけじゃない」
心外だ、という顔で妻は俺を軽く睨みつけた。そうだっただろうか。疲れのせいか、どうもぼんやりしていけない。最近、妻と顔を合わせてすらいなかった、とまた反省の種をひとつ思い出した。妻はそんな俺をしばらくジト目で見ていたが、呆れたように首を振った。
「ホントにしょうがない人ね。どうせ、ここのことだって覚えてなかったんでしょ」
「温泉の話か?」
「そうよ。結婚したばっかりのころ、予約までしてキャンセルしたことあったの、忘れたの?」
確かにそんなことがあった。働き盛りのころで、売上が目標に足らなかったので休みを返上したときのことだ。あの時も妻は相当怒っていたが、そのうち許してくれた。男の人は仕事が大事だからと、諦めたような顔で。その表情は何度か見たことがある。こんな風に約束を忘れたとき、勝手に予定を決めてしまったとき、そして、病院で俺がギリギリ臨終に間に合わなかったときにも、同じ顔で。
「お前、……ついてきたのか?」
「うん。だってあなた、お盆にも会いに来ないんだもの」
涼しい顔で、妻は言う。
電車はたった二人の乗客を乗せて、音もなく田園の中を滑っていく。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。