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2015/09/16

m299

彼は、本当におとなしい男の子だった。

子どもはうるさいもの、走り回るもの、いうことを全然聞かないもの。赴任する前に散々聞かされていた多くの話は、少なくとも彼には全く当てはまらなかった。何かを壊したこともなかったし、休み時間でさえ大きな声を出すようなことは一度もなかった。

彼は私が勤めていた民間学童施設のヘビーユーザーだった。
ここはフルタイムで働くワーキングマザー向けの施設で、夜22時まで対応可能であることを最大の売りにしている。
とはいえ、都心に近い施設のお迎えのピークは21時頃で、閉館時間ぎりぎりまで残るのは彼ひとりだった。

二人きりになると、私たちはいつも縫いぐるみでごっこ遊びをして過ごした。お父さんとお母さん、先生と子ども、美容師さんとお客さん。
ロールプレイングをするときの彼のお気に入りはくたくたのウサギの縫いぐるみで、靴を脱ぐとすぐにおもちゃ箱からそれを持って来るのだった。

「そんなに気にいったんなら、その子、あげようか?」

彼は、私の提案に驚いて顔をあげた。そんなことしていいの?と言わんばかりに目を見開いて、手の中のウサギと見比べる。大丈夫だよ。頷いてあげると紅潮した頬で抱き着いてきた。本当はそんな権限は私にはなかったのだが、沢山あるうちのひとつくらい、どうせバレないだろうと思ったのだ。

けれど、昨日母親に連れられて帰った彼はウサギを持ち帰りはしなかった。いつもと同じ場所に、ウサギは耳をたれて座っていた。彼がそう座らせたとおりに、小首を傾げたポーズで。

「なんで連れて帰らなかったの?」
「……せんせい、ぼく、男の子だもん」

夕方、靴を脱いだばかりの彼を捕まえて聞いた。彼ははぐらかすように笑うと、いつも通りウサギを自分の椅子のそばに迎えに行きながらそんなことを言う。なんだか大人ぶった言い方だなと思った。大体、妙に声が低くなっている。言いたくないことがあるのかと思った。

「だからさ。男がぬいぐるみとか好きなのって、へんじゃん」
「変かな」
「へんだよ」

私が首をひねると、彼は紙パックのジュースを一息に啜った。それから、隣に置いたウサギを見て、ゆっくりと小さな手で撫でた。

「僕がこういうの好きっていうと、ママが微妙な顔するんだよね」
「なんで?」
「パパがいないから、そういう女々しいものを欲しがるのかって、前に言われた」

プリントやるね。話題を打ち切るように彼はそこで立ち上がり、学習机のほうに移動して宿題を始めた。いつもならその席に連れて行くはずのウサギは、今日はランドセルと一緒に留守番をさせられている。
取り残されたウサギの耳はぷらんと垂れて、ガラスの目玉は書き取りを続ける小さな背を見つめて鈍くひかっていた。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2015/09/16 08:56 | momou | No Comments