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「化身」会場掲示のキャプションより.
このコラムを書いているのは
明けて2005年7月18日.
写真展「化身」の最終日になります.
このコラムを書き終えてから、
眠って朝起きたら、写真展最終日の
扉を開けて出て行く時間になります.
去年も、一昨年も同じことを
やっているはずなのに、何故いつまでも
こう..切ない気持ちになることに
慣れないのだろうって..いつも思います.
それでも今年、またその扉を切ない気持ちで
開けて行くのは、それはたぶん「終わらせるため」
ではなくて「何かの始まりのため」でもあるように思えて
ここからもう既に、作品創りって
始まっているのではないかな..
と感じたりもしています.
それはそれで楽なことではないのだけれど.
掲載した写真は、実際に会場であるWALDに
この写真展の導入として掲示しているキャプションです.
「二軸相反」
まずこの言葉から作品を組み始め
初めて二人の被写体さんを並列させながら
そしてそこで「比べる」のではなくて
それぞれが持っているもの、持っていないもの
引き合うもの、離れ合っていくもの..
そんな部分を強く打ち出そうと試みました.
纏うような、そして決して
揺らぐことのない絶対感か
足掻き、揺らぎながらぶつけていく
絡み付くような情感か.
あえてそんなふうに感じるように
展示構成したのは事実だけれど
言ってみればそれは作家としての僕が用意した
「器」でしかないもので、決して彼女たちを
的確に現すものでは無くて.
絶対だと思っていたケイさんの
作品と向き合うときの時折見せてくれた
儚い表情や、作品創りの中で何かを
見つけられたらと向き合ってくれていた
ケイさんなりの真摯な姿勢は、
僕が写真作家として初めて
感じさせてもらえたことでした.
そして作品制作が途絶して、
ただひたすら後退していたかに
見えていたえりかさんの、自らの脚を運んでの
告知活動から展示設営までの頑ななまでに
前へ進もうとしている想い..逆にそこに
揺るぎない意志を感じたりもしたこと.
写真はそこに写ったものをカタチに現すと
言われるけれど、それだけが全部じゃなくて
むしろ逆のものさえ感じ、見つけることが
出来るのだということを
二人から教えてもらえたように思います.
「たくさんの言葉を交わした気がします」
これはケイさんが被写体さんへとして置いた
感想ノートに記してくれた、えりかさんへの言葉.
結果としては想いの両翼に在る二人が
同じ空間で出逢うことはなかったけれど
彼女の言葉がこの「化身」という写真展を
一言で伝えているようにも思えて.
そしてまた、僕が「距離感の作家」であることを
気付かせてくれて、その先へ続く扉を開けてくれた
「深入り」での被写体さんであるさゆりさんから
それは連綿と紡がれ、繋がれて来たものだと
あらためてそのことの大きさに気付かされもして…
気が付けば、あの夏の新宿から
ずいぶん遠くへ来てしまって.
今年の夏、この写真展での作品の二人を
見つめるさゆりさんの表情に
今までに無いものを見つけて.
そしてそれはいつものように
通り過ぎてしまってから
気付いてしまうものでもあって.
それでもこうして僕自身という作家を通して
紡がれていくものがはっきり存在することを
あらためて気付かせてもらえた気がするから..
だから最終日の扉を、そのもう少し先へと
向かうために開けて行こうとする..
さゆりさんが開き、
今またケイさん、えりかさんが開けてくれた
その扉のもう少し、先まで.
紡がれ、繋がれて行くもの..
それは写真作家としての自分自身の生き様だと思うし
たぶんかけがえのない財産と呼べるものだと思うから..
そして何より、それに応えられる作家であるために.
「想いありき」
それが果たしていつまで続くものなのか
自分にも解らないし、怖さも苦しさもあるけれど
それに気付かせてくれて、見つけられるものが
そこに在る限り、僕はきっと…
2015年の写真展「化身」は7/18で閉幕です.
期間中、自分が思っていたよりずっとたくさんの方に
ご来場いただいて、そこでたくさんの
気持ちに触れさせていただきました.
展示初日よりも最後の日になって
これがやれて良かったと思えるのは
初めてかもしれません.
それもまた、ここで見つけた大切なものの
一つだと思っています.
3年連続で、そして去年より、一昨年より
たくさんの感謝を伝えられる今年の夏を
すごく幸せに感じています.
2015.7.18. 古賀英樹