« | Home | »

2015/03/31

皆さん、おはようございます。

実は先日、調伏護摩というやつを焚きました。
別名、降伏護摩ともいいまして、
要するに何かをねじ伏せる、というような護摩です。
伏せ調えるのか、伏せ降すのか、という言い方の違い。

時代劇や歴史ドラマなどで、
合戦に際し、領内の僧侶に命じて、
戦勝祈願・・・といえば良い言い方ですが、
相手を打ち負かす祈願をさせる、というシーンがあります。
護摩を焚いていれば、それが調伏護摩というやつです。

これを個人に向けて行うとどうなるかというと、
一般的には呪詛、つまり呪いだと考えられています。
確かに完全な間違いだとも言えない部分があります。
例えばここにどうしようもない悪党がいて、
この悪党が積み続ける悪業をどうにかして下さい、と
調伏祈祷をかけるとします。
何かで痛い目に遭うことがきっかけで改心出来る範囲であれば、
きっとそのようになるでしょう。
しかし、痛めつけたくらいでは改心出来なさそうな場合、
この悪党はかなり不本意な死を迎えることでしょう。

現象だけ見ていると、
AさんがBさんに祈祷をかけて、結果Bさんが死ぬ・・・
これでは呪ったようにしか見えませんよね。

 

chobukugomadan

さて、対象は何であれ、何かをねじ伏せてくれ、
と祈祷する以上、それは調伏の祈祷です。
そして、墨で染めたゴマとか、鉄粉とか、
およそ食えないもので黒いものを供物として火に投じます。
また、六器には刺のある葉っぱ、ヒイラギの葉を供えました。
これだけでも、怪しい呪詛をかけているように見えるでしょう。

しかも、こういった供物を火に投じつつ、
口で何と言っているかというと、
真言を書くのは差し控えますが、
ニュアンスとしては、「ドタマとってこんかい!」という感じ。

恐ろしげなものを火に投じる身の行い、
そして真言を唱える口の行い、
この二つについては、呪詛と方法論は同じです。
だとすると、呪詛と一線を画す要素は何か、ということになりますが、
それは意密、つまり、心の行い、働きであります。
そして、護摩に限らずあらゆる修法の大事な部分、奥義の部分は、
まさにこの意密にあるわけでして、
そこが呪詛でないから、この修法が呪詛でないのです。

今回は、衆生の三毒、つまり貪(貪り)、瞋(怒り)、痴(愚かさ)を
調伏の対象とし、それに関連する諸々の悪心や悪縁が
伏せ調えられるように、という祈願をしました。

坊主の祈りとしては至極真っ当な内容だと思いますが、
それでもこの修法、色んな意味で痛かったことは確かです。
まず、必然的に刺だらけのヒイラギが目の前にあるわけで、
六器をいじるたびに痛かったことは言うまでもありません。

また、いきなり火が消えて、すごい煙が噴き上げ、
南蛮燻しを食らって目が痛かったの何の!
涙を流しながらの修法でした。
やがてついた火も、暴れること暴れること。
右手は危うく火傷するところだった場面が何度も。

 

chobukugoma

そして、何よりふらつくような疲労が・・・。

さらに不思議なことが続きます。
翌日の昼食を約束していた友人が、
深夜に料理をしていて、油が跳ねて右手に結構な火傷を負いました。
キャンセルを申し出るLINEを受け取った時、蒼くなりました。
決して直接的な関連があるとは思いません。
ただ、私が調伏護摩を焚いていなければ、
その火傷は今日ではなかったかもしれない、とは思います。
たとえ、友人に火傷を負うべき業があったとしても、
それは別の日に起こったのではないか、
というのが私の思うところです。

このように、調伏護摩の何たるかを、
身を以て経験することが出来たのは、
良い勉強にはなったと思っています。
息災、増益、敬愛という
普段修している祈祷でそこまでなったことは、
これまで一度もありませんでしたから。

そして、決して間違った願意ではない祈祷でさえ、
このような痛い現象を引き起こすわけですから、
本当に呪詛として使ったらどうなるのか、
考えずにいられない、という点でも
良い学びであったと考えることにしました。

2015/03/31 01:56 | bonchi | No Comments