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皆さん、おはようございます。
そして、あけましておめでとうございます。
今年もバンバン書いていきますので、
よろしくお付き合いのほどをお願い致します。
今回は、椿姫の原作と小説との差を考えてみたい、
という風に考えていますが、
たいていの方はここで、引っかかるでしょう。
椿姫の原作って、小説のことと違うんかい?と。
もちろんそうなんです。
普通に考えれば椿姫は、デュマ・フィスの小説が
それ以降の作品の原作なんです。
しかし、源流そのものは、歴史的事実にあります。
それは、高級娼婦マリー・デュプレシーの生涯です。
マリー・デュプレシーがマルグリット・ゴーチエのモデルです。
しかし、モデルという領域に収まっている話かといえば、
そうとは言い切れないところがあります。
マルグリットの生い立ちに関する言及は、
デュマ・フィスが知るマリーの生い立ちから成立していますし、
マリーもマルグリットも肺病で、香りのない椿を好んでおり、
トレードマークになっている、ということも共通です。
何より、デュマ・フィスとマリーが交わした会話や手紙が、
小説に引用されているわけですから、
モデル、などというほど薄い話ではありません。
となると、小説、戯曲、そしてオペラ「ラ・トラヴィアータ」の原作は、
実在するマリー、デュマ・フィス他マリーを取り巻く人々、
ということになるでしょう。
しかしながら、マリーがマルグリットそのものだったかといえば、
根本のところで大いに違っています。
マルグリットの人格というのは、デュマ・フィスが
「マリーがこんな人であってくれたら」という理想の女性であり、
マリーの人格は別物、ぶっちゃけて言えば、
デュマ・フィスにとっては劣悪なものだったということです。
マリーはマルグリットのように、
放蕩せずにいられるならそうしたい、と思う人物ではなく、
田舎暮らしにはさっさと飽き飽きする人で、
マルグリットがアルマンを愛するようには、
デュマ・フィスを愛するわけではありませんでした。
つまり、マリーがデュマ・フィスに、
マルグリットがアルマンに言うのと同じセリフを言ったとしても、
背景にある心の状態は全く異なっていると考えてよいでしょう。
そもそも、マリーは名誉に対する執着が半端ではありませんでしたから、
貴族でないデュマ・フィスは最終的な伴侶対象にはなり得ません。
もしジョルジョ・ジェルモン的な父親でも表れて同じ依頼をされたら、
涙一つ本気で流すことはなく、別れに応じたでしょう。
結局、晩年にペレゴー伯爵と、ロンドンでかりそめの結婚をし、
形ばかりの結婚証書と、伯爵夫人としての紋章使用許可をもらい、
伯爵夫人として生涯を閉じることを画策しました。
最後に墓に刻まれたのは、アルフォンシーヌ・プレシー・・・
つまり本名であり、平民としての埋葬だったわけです。
この上昇志向、のしあがり願望の強いマリー・デュプレシーを、
純愛に目覚めてしまうマルグリットと混同するわけにはいかないのです。
つまり、椿姫作品の源流はマリーにあるとしても、
椿姫という物語の原作、基点はあくまでも小説にあるのです。
この史実と小説との間にある残酷な差を、
戯曲であれオペラであれ、この作品に関わる人たちには、
きっちり認識した上で臨んでいただきたいものです。
そして、私が取り上げたいのも、あくまでマルグリット、
つまり小説段階でのヒロインなのだ、ということを申し上げておきます。
マリーのような人物は、現代音楽のオペラでしか扱えないのです。