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皆さん、おはようございます。
先日、仲間とお守りしている神仏習合形式の護摩堂で、
秋の大祭で護摩三昧を致しました。
午後から4座の護摩を修行しましたが、
私は最後の座を勤めさせていただきました。
私が修した護摩は何だったかといいますと、
欲・触・愛・慢など、
主にセックスの感覚で象徴される十六の尊格を眷属とする、
十七尊愛染明王を本尊とする敬愛護摩でした。
(この修法については、「呼ぶ声」というショートショートを書きました。)
護摩堂の本尊、主祭神と地域住民との和合、
威光倍増などを祈念した護摩です。
修法による祈願について、このような考え方があります。
いわゆる願主、この場合でいえば地域住民でしょうか、
そういう人たちに祈願の験が出ることはもちろんだが、
その功徳が誰に一番及ぶかといえば、
それはやはり・・・この場合、私ですが・・・
行者自身に最も及ぶ、と。
敬愛好きな私にしては、
異性からの、異性としての敬愛は得にくいくせに、
私の敬愛は専ら、仲間に恵まれる形で功徳が現れるようです。
実は椿姫のキャスティング、ほとんど決まりかけです。
2日のトスカ稽古の席で、あれよあれよという間に埋まりました。
ほぼ、私の希望するメンバーがOKしてくれた形です。
中の一人に至っては、投稿している椿姫の構想を読みながら、
自分にオファーがこないか、と思ってくれていたそうで、
芸術監督冥利に尽きる話です。
今まで、こんなスムーズなこと、ありませんでしたから。
となると、彼らは当然ながら私の所有物などではなく、
神仏からの預かりものということになります。
大事に扱わせていただくことはもちろんのこと、
彼ら自身の境地が大いに高まるよう、
私自身も精進してかからねばなりません。
そういった意味も含め、
公演が成功しますように。