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2009/11/02

あれから僕は映画学校を卒業し大学に進学した。そこでもさらに多くの出会いがあった。留学は今では当たり前のものになってしまっているがひとくくりに言えるほど簡単なものではない。そこでもいろいろな人間が様々な事情を抱えて共存している。同じ留学生でもシドニーと聞くと青空で楽しく、うれしい思い出があふれる人間もいれば、雨に打たれ路上の片隅で途方に暮れた者だっている。孤独と向き合い、異文化と真に向き合い勉学に励んだ者や真の異文化の中で築いた友情をはぐくんだ者も入れば、白人の彼氏や彼女をつくったが、向こうの社会にまったくなじんでいない「見た目が日本人」が取り柄の者も多い。
帰国後、僕は「帰国子女」というレッテルでしばらく苦しい時間をすごさなければならなかった。多くの会社は使い捨てのような人材を求めていたしそれを素直に面接で僕に伝えた。僕のような若くして海外のテレビ局で働いてきた人間を煙たがる風潮も少なからずあった。また外国人に弱い日本人があまりにも東京に多いことにも愕然とした。東京の外国人の多くが日本語をしゃべれない理由は少なからずここにもあるのではないか?精神性というかその意識レベルで。このようなジャンクが頭の中を渦巻くこともある。
僕がシドニー生活で感動した出来事の一つはやはり映画だった。映画学校の卒業制作のために教師のGは生徒全員から台本を集めた。その中で投票で台本を選ぶ。もちろん投票前に「ピッチ」の時間が与えられる。ピッチとはプレゼンのことだ。僕は自分の作品なぜ誰もクラスメイトは理解できないだろうと奴らをバカにしていた。しかし実際ピッチを聞きながら僕の台本に興味を持つ奴らがでてきた。そして卒業制作作品の2本うち一本は僕の台本になったのだ。あの時は感動というよりはあっけにとられた感じだった。しかしあの出来事が自信となった。芸術は国やことばを超えることができると。それから映画にさらにのめりこんでいった。
大学進学後、テレビ局での経験などなにかと刺激の多い生活が続いた。今にして思う、多くの人間とかかわり、時間を共にすることでそれは生きる活力になる。なぜか?人は出会った人間の数だけの人格や感性を自身の中に構築するからだ。出会ったすべての人間は僕になり、僕という人間から世界に発信される。そしてそれはまた多くの人間たちに出会っていくから。彼らは僕の中にいるし、彼らは僕自身なのだ。僕もそして彼らなのだと思う。

シドニーライフ編 終了

2009/11/02 11:56 | 未分類 | No Comments