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2011/04/04

自分がやっていることの意味

去年から企画していた映画の制作が遂にスタートした。そんなさ中に起きた大地震と津波、そして原発の問題。当然ながら映画は一時中断。スタッフも僕もそれぞれの家族や親せきのこと、又はそれぞれが自身のみの振り方を模索する時期だった。答えは見えず、みなほとんどやみくもに突っ走り、しかも即座に決断をすることを強いられた。僕もその一人だ。
避難するのかしないのか、仕事を続けるのか辞めるのか、学校に通うのか辞めるのか、答えもないまま苦しんだ人は多いと思う。何をどう選択して進んでいけばいいのか・・・それは震源地付近の被災者だけにとどまらず、世界中の人間が何らかの形で感じたはずだった。僕の遠い海外の友人ですら多くの選択を迫られ、そして何らかの道を選ばなければならなくなった。僕は多くの近い人間とでさえ価値観の違いやそれぞれの決断に悩んで苦しんだ。当然のことなのですが人間が一人ではないということをまざまざと見せつけられた感じだった。
原発関連の報道の仕事の依頼が殺到した。それも僕を悩ませた。近くに感じれば感じるほど、根本的な問題点が見えなくなっていったからだ。ネットやテレビで様々な意見が飛び交ったし。それについてのバッシングなども多く起こった。でも皆が知りたい「本当の事」や感じたい「本当の安らぎ」とは何なんだろうか?近くにいればいるほど分からなくなっていった。むかし大学時代にコノモス教授がいっていた「複数の真実」の授業を思い出していた。「真実とは複数の真実で形成されている」と。
例えば報道番組にかじりついて最新情報を逐一確認し、自分や親族の安全対策に役立てようとする人もいる。またはバラエティー番組を見ることで不安を取り除かなければどうしようもないくらいの人もいる。クレイジーな話かもしれないがマスクをつけるかつけないかで悩んだり喧嘩になった人だっているはずだと思う。複数の真実。この言葉が思い起こされた。
僕自身個人的に多くの犠牲を払わなければいけない選択肢をいくつかくぐりぬけ体重も減った。もちろん一日3食だったのが2食になったのもその理由だが。
そもそも食欲がミニマムになってしまったこともある。しかし不思議とこの状態が集中力を高めてくれる。金の無い大学時代もそうだったように、満たされていないという感覚が心にアラートをかけてくれる。地元の駅も節電でいつもより暗い。これも賛否両論なので何がいい悪いはここでは控えたいが、海外生活をしていた頃を思い出すような丁度心地よい暗さになっていた。そこには懐かしささえあった。ドイツに1カ月一人旅をしたときは店が空いてるのかどうか看板の明かりだけでは判断が出来ない事がよくあった。それに近い感覚だった。

今回の震災でメディア業界に移管していうとまず僕が一番に感じたのは「音楽」
今やレコードやCDの存在が薄くなり(一方では濃くなっているのだが)データ化され、アルバムの持つアーティストの作品性よりも一曲のヒットだけをダウンロードする傾向も増えてきている中で、音楽が垂れ流しのごとく溢れている感じもあった。しかし震災直後から音楽の持つ根本的な、大事な何かを、自然と人々が求めたこと。このことに僕は驚きに近い新鮮さを覚えた。そしてある日テレビで尾崎豊さんのドキュメンタリーを見た。なぜ見たのかははっきりと覚えている。僕も多くの人の様に急に仕事がキャンセルになったり、予定がめちゃくちゃになり何を優先して選んでどう生活すべきか考えていた時だったし、自分がやろうと思ってやってきた積み重ねがいったいどういうものなのかを考えていた。本当に意味があることなのか?自分はまちがった生き方をしてきたのか?だからこそ僕は音楽というアートをどうしても知りたかった。
そしてそれと照らし合わせて自分のやっている映像について考えたかった。映画やドキュメンタリーという作品はなかなか一人でアコースティックギターをかき鳴らすといったわけにはいかない。そういう思いが強かったから。もちろん出来なくはない。しかし僕がやろうとしているものはその規模で出来るのか?僕にはその答えがなかった。
僕はスタッフ全員に連絡をとり(それ自体容易な作業ではなかったのだが)映画を延期することを告げた。今思えばこの行為は自分のなかの何か重たい鎧を取り払う儀式なんだったのだと思う。キャンセルをした瞬間に僕がやるべきことは無くなり、ただ偶然被災地にいなかった一人のラッキーな男。になった。
仕事で社会に貢献してもいないし、ボランティアをやってるわけでもない。貯金を切り崩して少量の食品を摂取している、隙間にはまっているような、隠れているよな、そんな感覚になった。
そんな時、僕は映画をとる決意をする。再開、がふさわしいとは思わなかった。なぜならこれは再開ではなくて新しい映画になるからだった。僕はカメラマン無でも音声マンなしでも撮ろうと決めたのだ。ついてきてくれる人がいればついてくればいいし、来なければ中指を立てればいい、まるでパンク時代の少年のころのように。ただ創ればいい、それだけ。そう思えた。

そして今この感覚があるうちに撮りたい作品だと気がついた。「究極の幸せ」女性の主人公が人生の選択に向き合うそういうシンプルな話し。そういうものを創りたい。そう思った。震災前に撮ると決めていたものの震災後の少し変化した自分で撮りたいと思うようになった。僕は目に見えない、見えにくい何かを表現したいと思う。テーマとかメッセージとかではなく、コメディやドラマを通じて人を描きたい。そうして映画製作は再開した、僕の心の中で。

2011/04/04 09:59 | hayamizu | No Comments