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あの人のことを思い出すとき、私はいつも夢から覚めたときと似ていると思う。
それは幸せな夢の時間、温かな布団のぬくみを捨て、着馴れて柔らかくなったパジャマを脱がなくてはならないのと同じ種類の痛みだ。横になればすぐそこにまどろみがあると分かっているのに抜けなければ何にも出来ない冬の朝みたいに、私はあの人のことを思い出す。
あの人は、私の兄だったひとのことである。
兄が上京するまで、私たちは本当に仲のいい兄妹だった。
いわゆる恥かきっ子の私はどこに行くにも兄に付きまとい、兄は邪険にしつつも大抵は応じてくれた。デートについて行ったこともあったし、休みの日は買い物やカラオケにも一緒に出かけた。両親がそれを喜んだのも拍車になって、連れだって歩く兄は恋人のように世話を焼いてくれた。私はどこに行くのでも、何をするのでも、兄に手をひかれていたのだった。
周囲からもブラコンだと呼ばれたその状態が解消されたのは兄が塾に通い出してからである。習い事なら大抵は同じ場所に行けても塾まではついていくことが出来ず、私は兄の不在を兄に似た男で埋めた。兄に似た男は沢山いた。でも、その誰もがどこかしら過剰で、何かしら欠けていた。当たり前の結論として、私はその男たちと別れたりくっついたりを繰り返した。だって彼らは兄じゃなかった。
そして兄以外の男は私にとって本当の意味で恋愛の対象にならないのだと知ったころ、兄は東京の大学に合格して家を出た。
だから私は東京に憧れた。
兄のいる東京に、兄が暮らす東京に憧れた。その頃素行があまり良くなかったせいで両親は私の上京には大反対だった。兄ならともかく私は「都会の誘惑」に耐えられないというのだった。曰く、悪い男にだまされる。ふしだらな女になり下がる。私はそれらの反対意見を表面上は大人しく聴き、ある時突然兄の下宿先を訪ねた。
兄はいた。
合鍵であけた部屋のなかで、裸で知らない女と戯れていた。驚いた私にのっぺりした顔で言い訳する兄は初めて見る貌だった。知らない間に伸びた茶色の髪。煙草の匂い。
私は何も言わず踵を返し、その日のうちに家に帰った。見に行くつもりだった109もマルイも全部忘れて。
家では父と母が何も知らずにのんびりした声でおかえりを言った。
あの日から、私と兄は他人になった。
よくある顛末と言われるかもしれないけれど、けれど、だからこそ兄は私の特別である。
忘れられない甘い夢のような兄の記憶。
そういえば今付き合っている男も、兄によく似た劣化品である。
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花言葉:多感な心、哀れで寂しい
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。