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うれしいうれしい夏休み――の終わりまで、あと1週間。
でも、私にとっては嬉しいことなんて一つもない夏休みだった。大体、大学4年生なんて毎日が休日みたいなものだ。休みを満喫できるのは就職先がすでに決定している一部の子たちだけで、それ以外は毎日紫外線吸収率抜群のリクルートスーツを着て説明会やセミナーや面接を回ることになる。めぼしい企業は春の時点で採用を打ち切っているから、こちらのモチベーションを保つのも難しい。
今日も2社の面接を受けたけれど、手ごたえなんかまるでなかった。疲れだけが溜まったような靴を脱ぎ、エアコンの効いた居間に入る。
とたんに、だだだだだだという足音、甲高い「おかえりー」という奇声と下半身に衝撃が走った。ふらつきながら下を向くと、なぜか得意げな顔をした弟と目が合った。
「ねえちゃんおかえり!僕いい子にしてたよ!」どやあ。はいはい偉いね、といなして冷蔵庫を開けて、買い置きのカルピスを飲んだ。甘ったるい、でもやさしい母の味。
僕にも僕にもとせがむのでコップに注いであげたら、ぐびぐびっと小さな喉が満足そうに上下した。
「あんたはいいね。毎日楽しい?」
問いかけると、弟は首を傾げた。一丁前に迷うことでもあるのだろうか。うーん? となぜか考え込んでしまった弟を放置して、わたしはパソコンを開いた。明日締め切りのエントリーシートが1件ある。出そうかどうか悩んでいたのだけれど、こう惨敗続きでは贅沢も言っていられない。
住所氏名、生年月日、学歴、……志望動機、で手が止まる。
志望動機。入れればどこでもよかったからです、では×。貴社で働きたいと思ったのは……いや実はブラックって噂もあるから正直微妙なんですけど……でも、正社員なんだよね、ここ。本音と建て前の間で手が止まる。
やりたいことなんてない。未来に希望なんてない。でも正規採用じゃないと、派遣やフリーターじゃこの先不安だし……我ながら本当に後ろ向きな理由しか出てこず、ため息が漏れた。
「楽しいだけじゃないけど、楽しいこともあるよ」なのにそのとき、弟が妙に悟ったような顔でこんなことを言うものだから、つい聞き返した。え、なんて?
「だから楽しいだけじゃないって。リフジンなことばっかだし、いい子にしろって言われるし」
「よく知ってたね理不尽なんて」
「だってみんなそういうもん。リフジンなんだよヨノナカは」
でもさ、カルピスもおいしいし、テレビ見ても怒られないし、宿題しなくてもいいし、いいこともあるわけですよ。そうでしょうねえちゃん?
「あんたね。それは子供の理屈であって、大人は」
大人は、と言いかけて止める。大人は、違うのだろうか? みんな好きな仕事をしているわけじゃないことくらい、私もとっくに知っているのに。父も母も、楽しそうな顔で帰ってくるわけじゃない。私だけが特別な理不尽にさらされているわけでは、決してない。
そうね、そうかもね。答えて、私は書きかけのエントリーシートを読み直す。本棚から企業年鑑を取り出し、新聞社のホームページを開いた。せめて、言葉だけでも前向きに。
ふと手を止めて弟を見ると、無心に今はやりのアニメを見ていた。やっぱりこいつは楽しそうに生きてるよなあ、となんだかちょっとうらやましかった。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。