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2011/03/26

皆さん、おはようございます。

このコラムで死について考えてきましたが、
今回の震災、少し視点を変えればタイムリーというか、
死がかなり身近なものとなり、実際に人の死を見られた方、
自分が九死に一生を得て、死ぬことも射程距離だった方、
また、遠隔地であっても、親族や知人が被災地にいて
死んだとか死にそうになった、という話を耳にした方、
色んな形で死を考えるチャンスになったのではないでしょうか。

目の前の死を通して、どんなものを見られたでしょうか?

私が死に対して、一つ希望していることがあります。
それは「死後は無であってほしい」ということです。
生まれ変わりなどなく、単なる意識の消滅、
それ以上主観が生まれることのない状態であってほしいと。

実は、唯物論の説く死こそ、まさにそういう状態なのですが、
面白いことに、そういう唯物論者こそ、
死を恐れる傾向がある、というのは
私から見ているとまことに滑稽なことなのです。

なぜって、地獄に落ちないわけです。
死ぬ瞬間以降、何の苦しみも楽しみもない。
つまり、苦しむ主体がないし、
苦しみがなくてよかったと思う主体すらない。
それこそ永遠の眠りです。

しかし、どうやら数々の証言は、
残念ながら生まれ変わりがあるらしいことを示しています。
それを前提に、なぜ唯物論者が死を恐れるのか、
無になれることを恐れるのか、
一つ思い当たることがありました。

こういうシチュエーションを想定してみて下さい。
暗くて狭い、苦しいところに押し込められ、
お前はないんだ、お前は無なんだ、それが無なんだ、と
繰り返し言われつつ、苦しい状態を甘受させられたとしたら・・・。

そんな「無」という名前の地獄に落ちた経験が、
その唯物論者たちにはあるんじゃないだろうか。
そんなことを考えてしまいました。
実際には自分が存在しているにも関わらず、
存在しないかのように扱われたら、
それは苦しいに決まっています。

そんな経験をするのも、私はやはりカルマだと考えています。
ただし、殴ったら殴られた式の跳ね返り型理論ではなく、
死んだ時の心の状態が来世の境遇を決める、
という意識の連続理論です。
跳ね返り型は、いわば目には目を、の応報刑、
つまり刑罰になってしまうわけですが、
それには同意できません。

なぜならば、刑罰的にものを考えた場合、
「刑罰を与える者」を想定しなければならなくなるからです。
いったい宇宙の中の誰が、生き物に対してそんな絶対的な
生殺与奪権を握っているというのでしょうか?

さて、以上が私の生死観です。
本稿をもって、一旦休載し、
6月後半からは修行生活の報告を書いてみたいと思います。
それでは皆さん、しばしの間ごきげんよう!!

沙門惇声 敬って白す 

2011/03/26 08:07 | bonchi | No Comments