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色々なアイデンティティを持つ人と会うことは、自分の持っていたアイデンティティを壊す作業のような気がする。
インド系マレー人、韓国系フランス人、フィリピン系アメリカ人、日本人の私。
こののメンバーで話をすると、人種、国籍、アイデンティティ、教育、宗教、各国の政策、文化、考え方、価値観、人生の捉え方・・・いつも話す内容が多岐に渡っていてとても学びが多い。
たぶんそれは、私以外のみんながルーツと国籍が違っていて、差別や苦労を乗り越えてここにいるからなんだと思う。
単一国家で育った私にとっては自分のルーツと国籍が違って、そして宗教か価値観が違う国で住んでいるというのはとても不思議なこと。
思い返せば、私は小さい頃から日本人だし、日本に住んでいるし、当たり前のように日本語を話し、日本人としてのアイデンティティのみで生きてきた。
フランス人の彼女がとても面白いことを言った。
「フランスを含めてヨーロッパ人はいつでもI(私)を大切にする。でもアジアの中でマレーシアや日本などはWe(私たち)を大切にする。だからビジネスでどう思う?って聞いて、私はこう思うって返ってこない。会社としての意見はわかっても、目の前にいる相手が本当はどう思っているのか見えてこない。だから私はアジアでビジネスするのって怖い。」
話は弾んで、人生についても同じだよねってことで盛り上がった。
フランス人はご存知の通り結婚しない男女が多いし、国もそういう人のための制度を設けている。
フランス人の彼女からみたら、日本人の献身的に尽くすという姿勢やムスリムの女性は男性の所有物的な考え方が理解できないんだとか。
私は私を生きているの。
私は誰かを生きているわけではないし、誰かのために生きているわけじゃない。
自分を生きられない人が誰かのために生きられない。
私を本気で生きていなければ、子供に自分の人生を歩むということを教えられない。
母親、妻、社会人、女性、そういうカテゴリの前にいつも私というものが存在していたいの。
彼女はとても哲学的だ。
海外で暮らすようになって、「私はこう思う」って言う場面が多くなった。
日本にいた頃は「うん。私もそう思う」とか「わかるーー」って言葉を多用していた。
国が変われば、今まで疑問にすら思ったことがなかった「私」という捉え方も変わる。
「私は私を生きている」
何だか今の私にはとてもストンとくる言葉だ。