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地球の舳先から vol.314
ミャンマー編 vol.12
帰国の日、呼んでおいた専用車で、ワッチェ慈善病院で医療ボランティアを行う
「ジャパンハート」が運営するもうひとつの施設、子ども養育施設「Dream Train」に向かった。
(ワッチェ慈善病院の訪問記はこちらから。)
ミャンマー東北の国境地帯で、主に人身売買などの犠牲になる子どもたちをヤンゴンのこの施設で養育している。というと、逆にかっさらってきたようなイメージを受けるかもしれないが、「勉強したい」「進学したい」というモチベーションでやってくる子どもも多く、当然親と本人両方の承諾を得る契約関係だという。
女の子は縄跳び、男の子はサッカー、とどこにでもある光景。もちろん悲壮さはない。
先生が来て寺子屋的に勉強している子どもたち、仏教キリスト教両方のお祈りスペースも。
ちなみに、1人につき1人の足長おじさんがつく形で資金提供を受けているらしいのだが、
資金提供を要望する方の人数のほうが多い状況だとか。
しかし、進学を希望するものの今年は大学への合格者は残念ながらゼロとのこと。
それでも子どもは成長する。日本でいうパラサイト問題のようなことが発生しないとも限らない。
そんな可能性は孕みつつも、とにかくこのような施設を作ったということ自体がやはりすごい。
ヤンゴン中心部を離れ、空港に近いところに施設はあるのだが、
夜の帰国便まではずいぶん時間があった。
ダメ元で、運転手に「シェエダゴン・パヤーへ行けないか?」と聞いてみる。
あの大渋滞をもう一度かいくぐってヤンゴン中心部まで戻るのは、手間も時間もかかるし
第一事前予約の拘束範囲を大きく外れていた。
一度、ちょっと難しい、と言った運転手は、「じゃ代わりに日本人墓地でいい」といったわたしを
近くの日本人墓地に連れて行く間もそわそわと時間の計算をしており、やれ飛行機は何時だなどと何度も聞いた後、「はっ。これは間に合うぞ」ということになったらしい。
「一応オフィスに許可を取る」と電話でなにごとか話をし、結局追加料金も取られなかった。
ちょうど日が沈む時間に見たシェエダゴンパヤーは、言葉にならない荘厳さだった。
もちろんライトアップを受けて輝くのだが、「金色」という種類の色をわたしははじめて見たのかもしれない。
出口がたくさんありすぎて迷ううえ(靴を預けるので、入ってきたところから出なければならないのだ)、どこから入ったかわかるシールを胸に貼るのだが、中の案内人はみな案内が適当で
何度もエレベーターを往復する。そろそろパニックになっていたところ、日本の代々木に行ったことがあるという地元のおばちゃんが出口まで案内してくれた。
久しぶりに、フルオーダーではなく、ずいぶん自力で動く比率の高い旅だった。
わたしは決して旅慣れているわけでもないし、また根性もないので、いろいろ困ったこともあったが、総じて、ミャンマーの人々に最初から最後まで助けられて終わった印象しかない。
「困っている人がいたら助けなければならない」とか、「人が悲しんでいると自分が悲しくなる」
とか、そういう神経を持ち合わせているのだと思う。
それは、相手が全然知らない人であったとしても。
生まれながらにそういう人種なのか、ミャンマーという国が人をそうさせるのかはわからない。
ミャンマーの人は、幸せそうだった。きっと、幸せなんて、意識したこともないのかもしれない。
わたしたちが「幸せ」というとき、なんだかどこか無理を感じる。
自分の価値観の中での「不幸」の定義と、無意識に較べるからだろうか。
「豊か」を自認するときも、どこかの誰かの「貧しさ」と較べるのかもしれない。
本当に豊かで、幸福な人は、自分のことを「私は貧しくても豊かです」なんて言ったりしないだろう。
文明は、貨幣経済は、情報革命は、世界をどこに向かわせようというのだろう。
「またその話か」と自分でも思うのだが、いつも、その疑問に行き着いてしまう。
しかしかく言うわたしも、そんな集団神経症に感染したほうの一人なのだ。
いまさら、自由になんか生きられない。
不自由にとらわれた自分を思う。
その不自由の殻なんて幻想で、自分が作り出していることに過ぎないと分かっていても。
それは、貧しい生き方なのだろうか。巡りめぐって、不幸なことなのだろうか。
いや、世界の相対価値として「豊かさ・貧しさ」や「幸・不幸」を語ること自体が詮無い事なのだと
別の世界を見ると実感として分かる。
ミャンマー、おすすめです。
いったん、おしまい。(番外編あり)