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皆さん、おはようございます。
昨日はとあるお寺で護摩の導師をして参りました。
知らない人のために一言だけ・・・。
真言宗や天台宗のお坊さんが、
四角い壇の上で火を焚いて拝んでるでしょう?
あれです。
・・・と、その話をする前に、
お寺までバイクで走っておりましたら、
前を行く3ナンバーのデカい車に乗った男女が、
キスをし、イチャイチャしながら走らせておった・・。
どうも女の方がバカっぽかったので、
別に、その女とそういうことをしているのが
羨ましいとは思いませんでしたけど、
・・・好みに著しく反しているだけですが・・・
一切の議論以前に・・・危ねーんだよ、てめーら。
なんでキスしていることに気が付いたかというと、
ある信号で前の車が動いてくれず、
中の様子を見たら、なんとキスをしていたのです。
ようやく動き出したと思ったら、
二人はやたらと身を寄せ合ってイチャイチャ。
車の動きもシャープではなくなり、
なんだかフラフラと危ないったらありゃしない。
もはや是正しろとは申しません。
近くの崖から落ちて死んじまえ!!
・・・とはいえ、大阪市内に崖はありませんが。(笑)
さて、私は護摩に関わる時、
当たり前かもしれませんが、導師をするのが一番好きです。
おそらく、肉体的にはグータラ寝ている状態の次に、
そして、精神的にはグータラしている時よりも、
楽な状態でいられるからなのです。
壇上にお呼びした仏様だけ拝んでいれば良いのです。
余計なことを考える必要がない時間です。
考えていたら拝めませんからね。
そして、その状態になるのは導師一人なんです。
観想、いわばイメージを使って仏を呼ぶのは導師だけ。
その仏に対して様々な作法、印、真言を駆使して、
供養をしていくのも導師だけ。
周囲で読経している人たちとの共有体験ではないのです。
Q:いつやるの? A:今でしょ!
Q:誰がやるの? A:俺でしょ!
これ以外の答えはないのですよ。
周囲の人たちの中で、霊能者でもいれば、
仏への供養を共有体験できるでしょうけれども、
そうでなければ私は何かやってる変な人でしかないのです。
で、護摩に限らず、護摩の伴わない供養法においても、
少なくとも導師は、自分が金剛薩埵であると思い込みます。
金剛薩埵となって仏を供養していくわけです。
ということは、いつもの自分よりもランクは上がるわけで、
いやでもここで自己肯定感を味わうことになります。
究極の自己肯定なのです。
気持ちの悪かろうはずがない。
そしてここがミソですけども、
入我我入観によって、自分と仏が一体化し、
自ら仏の境地に遊ぶわけですから、
そこからの供養法は自分に対する供養でもあります。
仏である自分が供養されるのです。
これ以上の自己肯定のあろうはずもない。
うつ状態や無力感には妙薬だと思いますね、供養法は。
その状態で参詣者各位の祈願を入れるわけでして、
それは、仏の境地の導師本人からの祈りでもあると同時に、
仏本体である本尊の願いにもなり、
悉地成就(達成)に至ろうというものです。
密教には、例えば理趣経に代表される、
全肯定の教えがありますが、
それを手っ取り早く体感できるのが、
供養法の導師、ということになるでしょうね。
皆さんもやってみませんか?
・・その前に、出家してもらわなあきませんけど。(笑)