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皆さん、おはようございます。
コジ、いよいよ音楽稽古が終わり、
次回から荒立ちに突入しようとしています。
コジの音楽と向き合っていて感じるのは、
やはりアンサンブルオペラだ、ということです。
モーツァルトオペラは、よく基礎教材として、
音楽大学などの教育現場で取り上げられることが多いです。
しかし、私はこのことには少し反対意見があります。
もちろん、取り上げられることには賛成です。
私が反対しているのは、次の一点についてです。
モーツァルトは、基礎教材などではない。
基本などでもあり得ない。
じゃあ何かというと、しっかり応用編なものです。
そもそも、コンコーネを初めとする教材としての教材、
これらは基礎から応用、アクロバットに至るまで、
各種そろっている練習曲です。
しかし、モーツァルトはこれらのオペラを、
学生のために書いたわけでも、
アマチュアのために書いたわけでもありません。
仮にもウィーンその他の劇場で、
名人上手と言われる人たちが歌うことを前提として、
技巧を披露できるように書いてあるものです。
アリアなどはオーダーメイドだったのだから尚更です。
こんなものを、どうして基礎扱いなどできます?
しかし、振っていて思うのですが、
これほど音楽の構造が見えてくる作品もありません。
例えば、No.8ですか、恋人たちが別れを惜しむ5重唱があります。
これは、別れを惜しみ、途切れ途切れに、
「書いてね・・・手紙を・・」とやっているその前で、
アルフォンソが「笑えてどうしようもない」とコメントするのですが、
実際は美しい別れの音楽である以前に飛び込んでくるのが、
アルフォンソのコメントなのです。
私はこれを、別れの4重唱を伴奏にした、
アルフォンソのアリア、という形に組み立てました。
こういうこだわりが随所に施せるオペラです。
音楽が完全にドラマを語っているのです。
フィガロはテキストのメッセージと筋立てを追う音楽、
ドン・ジョヴァンニは出来事をスピーディに表す音楽、
しかしコジは、その場にいる人の内面を抉る音楽。
音楽の出来が良いのは、明らかにコジです。
ベートーヴェンのような人は言いたくもなるでしょう。
才能の無駄遣いだ、と。
そう、無駄遣いだと思えるほどに、音楽がすごいのです。
あらゆる意味で、コジは教材として最適だと思います。
まず、技巧的にちょっと背伸びしなければならないこと。
アンサンブルの方法論が色々あること。
テキスト解釈の勉強にもなること。
そして、オペラの王道である恋愛というものがテーマであること。
つまり、基本にも、応用にもなり得る教材であり、
勉強仮題としてこれ以上最適なものがないのです。
派手さはないので、ちょっと地味な勉強かもしれませんが。