こんにちは。タモンです。
前回に引き続き、能「求塚」の話題です。今回はなおのピンチヒッターです。
中世って宗教が非常に強かった時代です。特に仏教ですね。
今、「宗教に何ができるか」で雑誌の特集が組まれていることに較べたら、信じられないくらいに中世は神や仏が存在していた時代でした。
前回確認したように、二人の男性から求婚された莬名日処女(うないおとめ)は、そのことが罪とされ、地獄に堕ちました。
余談ですが。
中世において、『源氏物語』を書いた紫式部は、『源氏物語』を書いたことによって地獄に堕ちたとされる考えが生まれます。
和歌や物語などのフィクションは、人の心を惑わす言葉で、仏教の妄語戒(もうごかい)に反するものだという狂言綺語観(きょうげんきぎょかん)が普及します。親が「DSばっかりやってたら馬鹿になるよ!」と子供を叱り付けることと理屈は似ていると思います。紫式部はフィクションである『源氏物語』を書いたために狂言綺語の罪で地獄に堕ちたという「紫式部堕地獄説話」がうまれ、鎌倉時代の説話集『宝物集』(ほうもつしゅう)や歴史物語『今鏡』(いまかがみ)をはじめとする多くの文学作品に取り上げられました。中世においては法華経を書写するなどして紫式部の供養をすることが、とりもなおさず読者にとっての救済にもつながるのだと考えられ、「源氏供養」が行われたのです。
……それだけ『源氏物語』が普及したことの裏返しなのでしょうね。
現に、鎌倉時代以降、『源氏物語』の注釈書やハンドブックの類が多く書かれます。これは平安時代の言葉が鎌倉時代の人々にとって難しかったことの表れでしょうし、紙が貴重な時代に『源氏物語』を全巻揃えることは至難の業だったこともあるでしょう。
このような狂言綺語観だけではなく、紫式部が女性であったことも影響していたことも想像してしまいます。紫式部が男性であったのなら、中世にあのような堕地獄説話が広まったかどうか、疑問に思ってしまうのです。
本題に戻ります。
莬名日処女(うないおとめ)は、二人の男に愛されたことによって、どのような地獄に堕ち、苦しんでいるのか。
地謡\さらば埋もれも果てずして、苦しみは身を焼く、火宅の住みかご覧ぜよ、火宅の住みかご覧ぜよ
ワキ\あら痛はしのおん有様やな、一念翻せば、無量の罪をも逃がるべし。種々悪趣地獄鬼畜生、生老病死苦以漸悉令滅、はやはや浮かみ給へ
シテ\有難や、この苦しみの隙なきに、み法の声の耳に触れ、大焦熱の煙のうちに、晴れ間のすこし見ゆるぞや、有難や
シテ\恐ろしやおことは誰そ、小竹田男(ささだおとこ)の亡心とや、さてこなたなるは血沼丈夫(ちぬまのますらお)、左右の手を取って、来れ来れと責むれども、三界火宅の住みかをば、なにの力に出づべきぞ、また恐ろしや、飛魄飛び去る目の前に、来るを見れば鴛鴦(おしどり)の、鉄鳥(てっちょう)となって鉄(くろがね)の、嘴足剣のごとくなるが、頭をつつき髄(ずい)を食ふ、こはそもわらはがなしける咎かや、あら恨めしや
火宅とは、煩悩に苦しむ現世を火に焼ける家に喩えた仏教語です。ここでは、己の罪ゆえに地獄の炎に苦しむ自分の「求塚」を指しています。
彼女の痛ましい姿を憐れんだ僧は、思い切りよくこの世に執着する心さえ捨てれば、罪から逃れられるだろう、と言います。お経を唱えると、彼女の耳に届いたのですこし苦しみが和らいだのです。すると、小竹田男、血沼丈夫の亡霊が現れ、彼女の両手を取り、「こちらに来い」と引き立てられるのです。この世界はどこも火宅というべきもの、そこから何を頼りに出ることができるのでしょう。
二人の男の魂が飛び去ったかと思うと、彼女の目の前に、あの時賭けられ射抜かれた鴛鴦が飛んできました。その鴛鴦が地獄の鉄鳥(地獄で罪人を苦しめる鳥)となって、鉄のくちばしや足で、彼女の頭をつつき、脳髄を喰らいます。
地獄の苛烈な責めがくっきりと浮かびあがってきます。この極めて激しい描写は、いつ聞いても「痛っ!!」という感覚になります。この責めは永遠に続くものなのです。
彼女はそれほどまで重い罪を犯したのか。
仏教的価値観からすると、女は罪深いんでしょう。血の穢れがある存在とされてきましたし。罪深い存在であるために成仏できないとされてきました。しかし、平安時代に法華経が伝来すると、女性も成仏できるのだという考え方が爆発的に広まります。ただ、法華経でも女性は女性のまま成仏できるのではなく、死後、女性は龍女に変身し、それから男性へと変貌を遂げ、成仏できるとされました。このような考え方は能「海人」などにもみられます。
今回はこれぐらいにして、次回も「求塚」についてお話しようと思います。
地獄の描写はまだ続きます……。
こんにちは、諒です。
いつの間にか夏が過ぎて気温が下がり、寒がりなわたしは、これから訪れる冬を思って泣きそうです。にもかかわらず、前回の続きで氷室のことを書きます。今回は別の話題にして、氷室の話は氷作りの行われる冬に…とも考えたのですが、8月にたまたま都祁の氷室神社を訪れましたので、記憶の比較的新しいうちに、logしておこうと思います。従いまして、都祁の氷室の話が中心となります。
〔古代の氷の作り方と活用方法〕
さて、前回〔2、氷室の使い方〕として引用した『日本書紀』仁徳天皇条を改めて整理すると、以下のようになります。この記事も都祁の氷室のことを言っています。
1)12月に氷を作る。
2)保存方法は、3メートルほど地面を掘って、草を敷き、その上に作った氷を置く。
3)2月の春分に保存している氷を使用する許可がおりる。
4)利用方法は、夏、「水酒」に入れたりする。
1・2は氷の精製に関わることです。氷は、自然に張ったものを切りだすのではなく、人工的に精製します。都祁では、明治時代に到るまで氷作りと氷室が生きていました。そして現在でも、「復元氷室」が建てられて実際に氷の精製と保存が行われています。
〔明治期の都祁〕
井上薫氏は「都祁の氷池と氷室」(『ヒストリア』85、1975年)という論文で、明治35年~43年まで、都祁村で氷を作り、氷室に貯え、奈良の桜井へ出荷していた経験をもつ、吉井芳太郎翁から聞いた氷作りの話を紹介しています。
それによると、場所は、水のきれいな氷の張った池を選び、冬の夜、特に冷えるときに作業を行う。方法は、池の縁辺の氷に穴をあけ、そこから柄杓で水を汲んで、池の中心部に投げかける。それをひたすら続けて、分厚い氷を作り、作った氷は切りだして氷室に運び、貯蔵した。作業は、雪や霰が降ると中止する。なぜならば、途中で雪や霰が交ると氷が不透明になり、味もまずくなるためである。
…想像するだけでつらい作業です。吉田翁は13歳~21歳のあいだ、氷作りに関わったそうです。若くて体力があるとはいえまだ子供。本当に昔の人は偉いです。
水の味は何となく日常生活で判りますが、以前、京都の貴船神社に行った時、氷の味に感動した覚えがあります。夏の暑いときで、参拝の帰りに何気なく立ち寄った喫茶店で出されたかき氷が驚くほど美味でした。疲労やシロップのためではなく、氷そのものが何となく香ばしいような風味のある感じで、こんな氷があるものかと感激したものです。その時は、あの辺りは水が良いからなーと考えたのですが、吉田翁の話などによると、もしかしたら精製の仕方に工夫があったのかもしれません。今度、そうした出会いがあった時には、氷の仕入れ先を聞いてみようと思います。
〔現在の都祁〕
氷作りと保存には自然条件が整っている必要がありますが、主なものとしては、標高500m前後であること、そして1,2月の最低気温が氷点下3℃以下になること、だそうです。都祁の「復元氷室」は、大体標高500m弱の地点にあり、統計によると1,2月の平均最低気温は氷点下3℃です。冬の間に氷室に収めた氷は、7月の終り頃でも大体3分の1程度は残るそうです。ただ、2011年は、どういった原因か、3000kg入れて3kgしか残らなかったとか。
ところで、都祁の氷室の話が続いていますし、せっかくなので地図を出しておきたいと思います。赤い円の示す場所が、左から、氷室神社、氷室跡、復元氷室です。諒が8月に訪れたのは、福住町にある氷室神社とその近くの氷室跡です。「復元氷室」はそれよりもやや標高の高いところにありますが、今回はそこまで行けませんでした。
それと、氷室跡の写真。
大変わかりにくいですが、真ん中の木の後ろの地面が少し窪んでいます。氷室跡は学校の裏山みたいなところにありました。吉田翁が語るようにして作った氷を、こうした山中で保管して、都に運んだと推測できます。
〔古代における氷の利用〕
そのように苦労して作り、保管された氷の利用のひとつが食用です。前掲の『日本書紀』には「水酒」に漬すとあります。当時の酒は、現在のような透明でキレの良いものではなかったでしょう。濁りの残る酒に水を加えて口当たりを良くし、うんと冷やして飲む酒…などと、妄想が膨らむところです。平安時代になりますと、例えば『源氏物語』に「いと暑き日…(中略)…大御酒まゐり、氷水召して、水飯などとりどりにさうどきつつ食ふ」とあります。召した「氷水」は、酒や飯に入れて、暑い夏でも「さうどきつつ」(食欲も旺盛に)食べた様子がうかがえます。また、『枕草子』には「あてなるもの」(四〇)に「削り氷(ひ)にあまづら(甘葛:甘味料のひとつ)入れて、新しき鋺(かなまり:金属製の椀)に入れたる」とあります。「あて」とは、上品で優雅なことです。あぁ、美しくておいしそう。「削り氷」のことは、『栄花物語』(巻二十五「みねの月」)などにも見られます。
他に、なるほどな利用法が「保存」に関わることです。律令の「喪葬令」14に「凡そ親王及び三位以上、暑月に薨しなば、氷給へ」とありまして、暑い時期に親王や公卿が亡くなったときはその遺体を氷で冷やしていたことがわかります。そういえば、映画「サマーウォーズ」にそんなシーンがあったことを思い出しました。氷の受容は「涼」と「保存」が基本であるのは、古代から現在まで変わりません。
氷は、何しろ溶けてしまうものですから、古代における利用法や状態などを実際に見ることはできません。しかし、遺跡や昔を知る人の話から、どれだけ氷が必要とされており、人々が苦労を重ねて来たかがわかります。そして文学は、断片的ですが、その楽しみや美しさを伝えます。もっと研究が進んで、運搬方法や利用方法がもっと明らかにされることを期待しています。
涼しげな話題を…と思ってはじめた氷の話でしたが、文学よりも歴史的なことが多くなってしまいました。でも、古代の生活を知る、ということで、たまにはこういうこともあります。次回は、せめて季節に合った話題を選びたいと現時点では考えています。
今回は、能「求塚」のお話です。
「女」って何!?と考えさせられる作品です。
複数の男性から同時に愛されるのは、現在では「モテ」る女として認識されるだけですが、仏教的にはそうはいきません。なんと、それは罪となり、死後、地獄にいってしまうのです。
まずは「求塚」のあらすじを↓記します。
春浅い摂津国・生田の里。旅僧(ワキ)は若菜摘みの乙女達(ツレ)と出会います。残った女(前シテ)が求塚に案内し、「昔小竹田男(ささだおとこ)・血沼丈夫(ちぬまのますらお)の二人の男の求婚に悩み、生田川に身を投げた莬名日処女(うないおとめ)の塚である」と語り、塚のなかへ消えます。夜、回向する僧の前に塚のなかから処女の霊(後シテ)が現れ、地獄の化鳥から自身の目や脳髄を突かれる苦患を物語ります。
本曲は『万葉集』や『大和物語』に描かれた生田川伝説を仕立て直した作品です。
現在、大曲として比較的重い扱われかたをされている曲なのですが、金剛流・観世流・金春流では昭和以降に復曲されました。
爽やかな早春の菜摘ノ段から、暗黒の地獄の描写が仕方話で語られる後場へと鮮やかに転換されるのが見どころです。
前場で、菜摘女(前シテ)は莬名日処女の化身ですが、彼女の悲劇を他人事として語ります。しかし、三人称で語られていた内容が、突如「その時わらは思ふやう」と一人称で語り始め、処女と一体化するのです。この瞬間、早春の菜摘という爽やかな風景から、地獄の描写へと場面転換されます。
二人の男から愛されただけなのに、地獄に堕ち、永劫の苦しみを味わう理不尽さ。
これは『万葉集』にも本作品の原型はありますが、女が地獄に堕ちるのは中世特有の激烈な因果応報の世界です。
後場では、苛烈な地獄の描写が語られます。これはまた次回に。
9月11日Junk Stage 第三回舞台公演に連動した「企画モノ」コラム第一弾です。
今回は私なおが、いただいたお題の一つ「日本の舞台芸術」をテーマにお届けしたいと思います。
平安時代の舞台芸術、と言ったら皆さまきっと「雅楽」を思い浮かべられることでしょう。そう、あののんびりとした音楽、ゆったりとした舞。
平安の雅を体現している、といわれるあれです。好き嫌いは結構分かれると思いますが。(なおは結構好きです。脳にアルファー波?でも出るのでしょうか。ちょっとぼんやり出来て心地よいんです)
もっとも、「舞台芸術」の定義とは?とか、平安時代の人々に「舞台芸術」という概念があったのだろうか、といったところから考え出すとなかなか大変なことになるので、そういうやっかいなことはひとまず置いて、現在の私たちが「舞台芸術」とみなしている雅楽についてご紹介する、というスタンスでいきたいと思います。
さて、その雅楽。
私あんまり詳しくないんですよね・・・(←おいっ!)
いや、雅楽の公演にも何回か行ったことありますし、ゼミの輪読で雅楽に関連する場面が出てくれば、雅楽関連の辞書から舞や音楽の梗概を引用し、演奏・演舞記録をさらい、関連論文を読んでみる・・・というくらいのことはしてみるのですが、なにぶん実際に演奏・演舞してみる立場ではない以上、いまいちぴんとこないのです・・・もごもご。
加えて、現在演奏されている雅楽(主に楽家(がっけ)と呼ばれる家の人々によって伝えられてきました)が、どれくらい平安時代の雅楽の演奏をとどめているのか、という問題もあります。(実際、『源氏物語』に見える演奏技法が、早くも平安後期から鎌倉時代になるとどういうものなのか、はっきりとはわからなくなってしまう、という例を見たことがあります。)
現行の雅楽にご興味がおありの方は、是非実際の演奏会に足を運ばれることをおすすめします。まさに、百聞は一見にしかずの世界ですし、演奏会のパンフレット等をご覧になれば、にわか仕込みのなおのうさんくさい知識より遙かに確実な情報が得られると思うのです。
東京で行われる、特に規模の大きい演奏会は次の2つです。
・宮内庁雅楽部 秋季雅楽演奏会 http://www.kunaicho.go.jp/event/ensokai.html
(事前に応募して当選すれば、無料の演奏会!
残念ながら今年の申し込みは7月末で締め切られてしまいました・・・)
・日本雅楽会 定期演奏会 http://www.nihongagakukai.gr.jp/
(例年秋に演奏会があります。サイトを拝見したところ、今年の予定はまだ出ていないようす(8月14日現在)。
ちなみに昨年度は11月17日、於国立劇場、指定席4,000円、自由席3,000円)
演奏技法やその他、雅楽の具体的なことはプロに丸投げしまして(汗)、私なおがご紹介出来るのは、あくまで文学の側から雅楽がどのように物語を彩ってきたのか、ということなのだろうと思います。
『源氏物語』には、雅楽が演奏される印象深い場面がいくつかあります。
その中から、今回は光源氏と頭中将が青海波という舞を舞う場面をご紹介したいと思います。古文の授業でもきっと「お馴染み」の場面だと思います。
でも、あまりに名場面なので、「お馴染み」であっても再読して損はない場面ですよ(きっと。)
「青海波」は、波の様子を表現した舞で、二人の舞手によって舞われます。
光源氏のパートナーとなったのは、頭中将(とうのちゅうじょう)。光源氏の妻の兄弟であり、ライバルでもある藤原家の貴公子です。
(ちなみにこの時代、舞は貴族の男子には必須の教養でした。
プロの舞手もいたのですが、上流貴族の子弟は儀式で舞う機会が多くあったようです。)
物語のこの場面は、十月十日過ぎに予定された退位した帝の算賀(長寿を祝う催し)の予行演習(=試楽・しがく)を舞台としています。
平安時代にも、行事のリハーサル・予行演習は行われたのですね。
当代の帝、桐壺帝(光源氏の父帝)は、光源氏たちのすばらしい舞を寵愛する藤壺にも見せたいと、試楽を御前で行わせることにしたのでした。
さて。
この藤壺という桐壺帝が寵愛してやまない女御(妃の一人)は、かつて帝が溺愛した故桐壺更衣(光源氏の母)に生き写しで、光源氏の密かな思慕の対象でもあったのです。
思いを抑えきれない源氏は、既に藤壺の寝所にも押し入っており、この時既に藤壺は光源氏の子を身籠もっています。
光源氏がよく、マザコンと言われるのはこのあたりが原因なのですが・・・
(ロリコンとも言われますね、藤壺にうり二つの少女(若紫)を保護者に無断で自邸に連れてきてしまうので)
数えの3歳で母に死に別れた光源氏が、もはや永遠に手に入らない母の愛の代償を求め続ける(逆にいえば絶対的に美化された母の幻影に縛られ続ける)、という姿は確かに「マザーコンプレックス」と言えるでしょう。(現在一般に使われる「マザコン」の語義で理解すると、少し違うように思います)
それはともかく。
父帝の寵愛する女御(後に中宮、天皇の最も重要な后の位につきます)への恋はもちろん、絶対に許されるものではありません。「禁断の愛」というやつです。
「紅葉賀」巻冒頭の青海波の場面では、読者は既に藤壺が不義の子を懐妊していること知らされています。
主人公の、許されざる恋がどのような結末を迎えるのか。
露見してしまうのか、隠しおおせるのか。そして、藤壺のお腹にいる子どもの運命は・・・
青海波の場面は、そのような緊迫したストーリーの中に置かれたひとこまなのでした。
舞を舞う光源氏と、簾中からそれを見る藤壺・・・
物語は、光源氏の絶対的な美しさ、舞のすばらしさを徹底して強調して描きます。
(一緒に舞った頭中将は、普通の人に比べたら素晴らしいのだけれども、光源氏と並んだら美しく咲いた桜の花の横に生えている誰も気に留めないつまらない深山の木でしかなかった(「立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり」)ですって。ひどい扱い)
その美しさは、母桐壺更衣を間接的に死に追いやった弘徽殿女御(こきでんのにょうご・この物語では珍しく徹底した憎まれ役です)が、「神など空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」(神がめでるあまり、空に隠してしまいそうな美しさだこと。おおいやだ。気味が悪い)と悪口(?)を言うほど。
ここからは、下手な解説よりも、原文の美しさに酔いしれてください!
入り方の日影さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏面持、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや仏の御迦陵頻迦の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなるに、帝涙をのごひたまひ、上達部親王たちもみな泣きたまひぬ。詠はてて袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ。(略)藤壺は、おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えましと思すに、夢の心地なむしたまひける。
(夕日の光がはなやかにさしていて、音楽のひときわ美しく、感興もたけなわのころには、同じ舞でも光源氏の足拍子や表情はこの世のものとは思われないものである。詠(漢詩を舞人が吟詠する)などをなさるお声は、これこそが極楽浄土に住み、妙なる声で鳴くといわれるあの迦陵頻迦のお声であろうか、と聞こえる。舞が趣深く、感動的なので帝は感涙の涙をぬぐいなさって、上達部、親王たちもみなお泣きになる。詠が終わって、袖を翻しなさるのを、待ち受けて再開される音楽のはなやかさに、源氏の君のお顔は一段とはえて、常よりもいっそう輝いてお見えになる。藤壺の宮は、だいそれた気持ちがなければ、源氏の舞がよりいっそうすばらしく見えただろうと思って、夢のような心地がなさるのであった)
だんだんと薄暗くなってきた秋の夕暮れ時、はなやかにさした夕日は、光源氏の麗姿をいっそう鮮やかに、克明に映しだしたのでした。源氏の舞姿のえもいわれぬ優美さ、吟詠する声の美しさは、いよいよ盛り上がった音楽の音の美しさと相まって、居並ぶ皇族・貴族達の感涙を誘いました。
光源氏の舞がなぜこれほどまでに感動的だったか。
もちろん、スーパーヒーロー光源氏の万事に人並み外れて秀でた能力のなせるわざではあったでしょう。
でもそれ以上に、藤壺が見ているのを知っていたから、だからこそありったけの力と技を尽くして光源氏は舞い、歌ったわけです。
恋してはならない女性に、激しく燃える己の恋情を理解してもらうために・・・・・・
この時代、男性にとって儀式で舞を舞うことは、御簾の奥深くに住む恋する相手に自分の姿を見てもらえる数少ない機会でした。夫や家族以外の男性との会話は、御簾や几帳ごしに、召使いに伝言させてなされた時代です。(姿も見えず、声もほのかにしか聞こえない)
実は、『源氏物語』以前に成立した長編物語『うつほ物語』にも、許されない恋の相手(東宮妃)に見てもらおうと、男性が一生懸命舞を舞った、と述べる場面が出てきます。
ですから、禁断の恋をする男女を描く際に男性の舞に言及されることは、この場面以前にもあったわけです。(ちなみに、『うつほ』の男と東宮妃は、お互いに惹かれながらも清らかな関係なので、源氏と藤壺のような悲壮感はありません)
しかし、舞う男の美しさをあざやかに描写し、男の舞を(そして男自身を)この上なくすばらしい、と認識しながら、自らの犯した罪の重さにおののく女の姿をも描き出したこの場面は、恋の感動を、そして「禁断の恋」ゆえのロマンチズムをきわやかに描いて、『源氏物語』で最も印象深い場面の一つになったのでした。
試楽の日の夜、藤壺は帝と寝所を共にします。
息子光源氏のすばらしい舞を自慢したくて仕方がない帝に、「今日の舞をどう御覧になりました」と聞かれた藤壺は、ただ「格別でございました」と答えるのが精一杯だったと、物語は語ります。
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JunkStage第3回公演、9/11(日)に実施決定!
イベント特設サイト http://www.junkstage.com/110911/
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なおに余力があれば、来週もう一度更新があるかもしれません。8月末にはタモンが、イベントに連動したコラムをお届けいたします。
こんにちは。諒です。
関東は、雨でじめじめしているものの、気温としてはしばらく過ごしやすい日が続いていますが、決して「暑くない」わけではないですよね。日中はやはり汗をかきますし、動けば体が涼を求めます。節電がさけばれる昨今、涼しさに対する飢餓感が無意識に育ちつつあるような気がします。建築のことはよく知りませんが、学会や会社の建物というのは基本的に空調の効率を前提としているようで、風を入れて暑さを凌ごうにも、そもそも窓が開かなかったり、開けてもあまり意味がなかったり。そんな時、吉田兼好が、
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き此(ころ)わろき住居(すまゐ)は、堪へがたき事なり。(『徒然草』第五五段)
と言っているのを思い出します。これは当時の京都での暮らしのことですが、これからは都会の都市構想にも必要なのかな、と思います。もっとも、冬のことや近年の気象の諸々を加味した対策が取られなければならないのでしょうけれど。すでに取り組まれているのかも知れません。
さて、前置きが長くなりましたが、今回は古代日本人の暑さ対策について少し書きたいと思います。近年の猛暑ほどではないにしろ、古代も夏はやっぱり暑いわけで、人々は涼しさの追及を行っています。その一つが、「氷」の利用。といっても、1000年以上前のことですので、もちろん冷蔵(凍)庫などといった便利家電は存在しません。でも、冬に作った氷を貯蔵し、利用する知恵がありました。「氷室」(ひむろ)の活用です。
氷室に関する史料は必ずしも多くないのですが、平安時代に律令の補助資料として編纂された『延喜式』には、十ヶ所の氷室が記されています。なかでも有名なのが、都祁(つげ:現在の奈良市。石上神宮を西に見て山間部にずっと入ったところ。ゴルフ場が点在する辺り)の氷室でありました。『日本書紀』(仁徳天皇六十二年条)には、都祁の氷が朝廷に貢献されることにった起源が書かれてあります。ちょっと長くなりますが、せっかくなので全文を見てみましょう。
〔1、応神天皇の皇子である額田大中彦皇子(ぬかたのおほなかつひこのみこ)が氷室を発見〕 是の歳に、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)に猟(かり)したまふ。時に皇子、山の上より望みて、野中を贍(み)たまふに、物有り、其の形、廬(いほ)の如し。仍(よ)りて使者を遣して視(み)しめたまふ。還り来りて曰(まを)さく、「窟(むろ)なり」とまをす。因りて闘鶏稲置大山主(つけのいなきおほやまぬし)を喚(め)し、問ひて曰(のたま)はく、「其の野中に有るは、何の窟ぞ」とのたまふ。啓(まを)して曰(まを)さく、「氷室なり」とまをす。
都祁の野中に廬のような建造物を発見し、問うたところ、氷室であるとの答えが返ってきます。
〔2、氷室の使い方〕 皇子の曰はく、「其の蔵(をさむるさま)如何にぞ。亦、奚(なに)にか用(つか)ふ」とのたまふ。曰さく、「土を掘ること丈(ひとつゑ)余り、草を以ちて其の上に蓋(おほ)ふ。敦く茅・荻を敷き、氷を取りて其の上に置く。既に夏月(なつ)を経て泮(き)へず。其の用ふこと、即ち熱月(なつ)に当りて、水酒に漬して用ふなり」とまをす。皇子、則ち其の氷を将来(もちきた)りて、御所(おほみもと)に献る。天皇、歓びたまふ。是より以後、季冬(しはす:十二月)に当る毎に、必ず氷を蔵(をさ)め、春分(きさらぎ)に到りて始めて氷を散(くば)る。
氷室をどのように使うかというと、3~4メートルほど掘った穴の中に、茅や荻を敷いて、其の上に氷を置いておくとあります。仁徳朝は大体五世紀頃にあたります。実際、どれほど昔からこうした窟の活用が行われていたのか、それを知るすべは今はありませんが、温暖期と寒冷期を幾度も経た人類の歴史の古に遡れるのではないか、と想像が膨らむところです。ロマンです。都祁の氷室はその遺跡から、数十基単位で数ヶ所にわたり運用されていたことがわかっています。その実態の一端が、かの長屋王邸跡から出土した木簡によって確認されます。そこには、「都祁氷室二具深各一丈/廻各六丈//取置氷〇/一室三寸/一室二寸半・・・」(奈文研「木簡データベース」より)と窟の大きさが示されてあり、後文には、やはり草が敷かれていること、そして和銅五年(712)二月一日という日付まで記されてあります。この木簡は、長屋王の専用氷室があったことを示す史料なのでした。都祁の氷は、仁徳紀のような伝説が遺るほど、由緒正しい氷室であるためか。都が山城に遷り、朝廷による新たな氷室の運用が行われても、なお都に運ばれ続けたことが、前出の『延喜式』の記載からわかります。
都祁地域以外の奈良時代以前の氷室の分布については、史料が少ない関係で未だ謎に満ちています。そんな中で、ひとつ、重要な資料として認められるのが、天平勝宝八年(756)に成立した「東大寺山堺四至図」という、当時の東大寺の所領地を示す地図です。その界域には現在の春日社の境内も含まれていて、その中に「氷池」と「氷室谷」が示されているのです。平成二十年(2008)、この比定地の辺りで、都祁の氷室跡に似た、土坑跡が見つかりました。参考文献3.によると、この場所は奈良の「氷室神社」の旧社地ではないかと目されている所です。この神社、近鉄奈良駅から東大寺へ続く登大路の途中、奈良博の向かいにあるのですが、ご存知でしょうか。今後、調査が進めば、奈良時代の氷室の実態がより解明されることが期待されます。そうすれば、仁徳紀の氷室伝説がどれだけ重要視されたか、といったことまで研究が広がりそうです。楽しみです。
さて、古代の夏と氷については一回にまとめるつもりでしたが、思いのほか分量が多くなったので、二回に分けます。分けてしまったら、驚くことに二回目はほとんど奈良時代のことが出てきません・・・。ご了承ください。(自分の計画性のなさにびっくりしています。反省)
次回、八月の更新ではJunkStage舞台イベントの参加企画(イベント特設サイト;http://www.junkstage.com/110911/)として、関連する内容のコラムを掲載することになっています。まずはタモン氏のコラム、おたのしみに。
今回の参考文献 ) 1. 井上薫氏「都祁の氷池と氷室」『ヒストリア』85、昭和54年12月 / 2. 川村和正氏「氷室制度考―古代末葉の氷室制度の様相を中心として―」『国史学研究』31、平成20年3月 / 3. 同氏「奈良氷室に関する諸問題」『国史学研究』33、平成22年3月
こんにちは。中世文学担当のタモンです。
今回は、三島由紀夫『近代能楽集』「弱法師」が、原拠である能「弱法師」をどのように活かしているのかについて、お話したいと思います。最近だと、『近代能楽集』「弱法師」は、蜷川幸雄演出、藤原竜也主演で何度か演じられています。私は、藤原竜也主演の舞台を観て、彼の演技に圧倒されてハマりました。藤原竜也という俳優を知って、始めて舞台とテレビの媒体の違いをはっきりと認識できたのも、嬉しい発見だったのを覚えています。
以下、勝手な感想です。三島由紀夫を学んでいる方からすると見当違いも甚だしいことを書くかもしれません。ただ、能を中心に勉強する者が『近代能楽集』「弱法師」を見るとこんな感じになる、非常に大ざっぱな所感です。
能と『近代能楽集』「弱法師」(以下、『近代』)を比較すると、三島が能に描かれた仏教思想まで理解して創作していると思います。最も印象に残ったのは、クライマックスの場面です。能では、盲目の弱法師は、「日想観」を観想することで、眼前に風景を見ることができました。社会の最下層に位置する人間が、奇跡を体感し、悟りを感得するという設定は、日本文学のなかでよく見られるモチーフでもあります。この設定を『近代』は反転させます。能では弱法師の救いであり悟りの具現である風景の描写を、『近代』の主人公・俊徳は、第二次世界大戦の空襲で街全体が炎に包まれた地獄絵図を見たとし、「この世のおわり」と述べています。
俊徳 あなたは入日だと思っているんでしょう。夕映えだと思っているんでしょう。ちがいますよ。あれはね。この世のおわりの景色んです。(中略)いいですか。あれは夕日じゃありません!僕はたしかにこの世のおわりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を灼いたその最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のおわりの焔が燃えさかっているんです。何度か僕もあなたのように、それを静かな入日の景色だと思おうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれている姿なんだから。
この反転、意外と指摘されていないんです。なぜだう…。この前、先輩とこの話をして盛り上がりました。先輩が論文で書いてくださるのを待っている今日この頃。あと、藤原竜也のここの語る場面は圧巻でした。…かっこよかったぁ。。。森山未來もやらないかなあと密かに思っています。俊徳は、一般の人が聞いたら変なことを見ようとします。「青空のまん中に大きな金色の象が歩いている」「ビルの十二階の窓のひとつから大きな黄いろい薔薇が身を投げる」など…。
このような発言を繰り返し、養父母からは「狂人」(原文からの引用)扱いされています。能では盲目の身であることが乞食に落ちるまでの扱いをされるほど、差別を受ける対象でした。
そのような差別がなくなった『近代』において、俊徳は、素っ頓狂ことを繰り返し騒ぎ立てる彼の言動によって、社会から疎外されてしまうような存在として描かれます。そんな俊徳を愛する、愛そうとする養父母と実父母。幼児のわがままのような、荒唐無稽際まりない俊徳の言動を、容認し、追認しようとします。その理由は、、、よくわかりません。ただ、養父母は俊徳に天性の美貌とオーラに惹き付けられ、十五年間俊徳を育ててきた自負があります。実父母は血のつながりを主張します。両者ともに、俊徳の父母である、ということで養育権を主張するのです。
最後の俊徳のセリフが象徴的です。
俊徳 僕ってね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ。
これもまた、能の結末を踏まえたものであるような気がします。父との再会を果たす能の結末は、「ハッピーエンド」と捉えるものがあります。タモンは、その解釈ではなく、前回述べたように、人目を避けて声をかける父の姿から被差別民になった弱法師の過酷な未来と捉えます。そもそも父が息子を勘当したきっかけは、父が弱法師にまつわる嘘を吹き込まれたからです。能では明らかにされませんが、おそらく、身分ある父を息子が追い落としてその地位を狙っている…などのようなものであることが想像されます。父と息子は愛によって固く結ばれた関係ではないこと、息子が弱法師になった遠因を父が作っているのがポイントです。
三島もまた、能をそのように捉えたのではないのかなあ、と思うのです。だからこそ、天性の美貌とオーラによって養父母を惹き付け、血のつながりによって実父母を捉える彼の姿と、、、、。それにくわえて、目が不自由である者になったからこそ周りの注目を浴び続ける生涯をおくることを「誰からも愛される」という言葉で能からの脱却を表していると感じます。
ほんとうに、おおざっぱな感想です。……。
最後に、今まで俊徳にだけ注目していて触れませんでしたが、調停員・桜間級子も重要な人物です。狂言廻し的な役割を担っています。最後に「この世の終わり」を俊徳が見るのは、級子と二人きりの部屋なんですね。
俊徳 君は僕から奪おうとしているんだね。この世のおわりの景色を
級子 そうですわ。それが私の役目です
俊徳 それがなくては僕が生きて行けない。それを承知で奪おうとするんだね。
級子 ええ
俊徳 死んでもいいんだね、僕が
級子 あなたはもう死んでいたんです。
劇中では描かれませんが、おそらく、俊徳は実父母のもとへ引き取られるでしょう。養父母に育てられる盲目の孤児は、悲惨で過酷な体験をし、現在も「辛い」境遇であるからこそ、「この世のおわりの景色」を見ることができます。それが実父母に引き取られれば、その境遇はなくなる。アイデンティティをそこに寄りかかっていた俊徳は、その体験は自分自身を規定するものに他なりません。それがなくなるのです。
級子が俊徳に「こちら側」へ呼び寄せる役割をもっているともいえます。「愛される」人物として結末を迎えますが、俊徳と級子の会話から、彼の今後は「普通」の人生であることが暗示されます。それが、特別であることを自覚した俊徳にとって、我慢ならないことであった、とも読み取れるのです。
能では奇跡を経て、人間が容赦ない現実と向かい合う姿が描かれていました。『近代』でもまた、二重三重の反転がされながらも、その点ではおなじなのではないかと感じます。
今回で、弱法師については終わりです。タモンの今度のテーマは、、、何にするかまだ決めてません。方堅(ほうがため)についてやろうか、「道成寺」についてやろうか、もしくはもっと他のことか。考え中です。
次回は諒です。おたのしみに~。
一月半ぶりにお目にかかります。なおです。
今回は、平安ワンコ事情②をお届けする予定だったのですが・・・
ワンコについて書きますと、更新期日に間に合いそうにないのです・・・・・・いや、資料は手元に揃っているのですが、それを読んでいただくに値する文章(と書いているワタクシが自己満足出来る文章) にする気力が・・・もごもご。
万が一「ワンコ」に期待してくださっていた方がいらしたら申し訳ありません。
というわけで(!?)、『源氏物語』研究者および見習いの「手の内」の1つをさらけ出して、お茶を濁そうかと思うのです。
さて、長大な物語である『源氏物語』。
テレビの教養番組等で、その内容の紹介や説明がされる際に、「それってどうやって調べたんだろう?」と疑問に思われたことはありませんか?
例えば。
『源氏物語』作中、「◇◇」という言葉は○例、「△△」という言葉は×例使われており・・・
などというナレーションがさらっと流れた時。
「全文読んで、数えあげたんだろうか!?」と思われる方は、あまりいないとは思いますが・・・
もちろん、全文を読み返して数えたりなどしていません。索引という便利なものがありますから。
一世代前までの研究者たちは、池田亀鑑という偉い先生が、お弟子さんたちやご家族までも総動員して完成させたと伝えられている『源氏物語大成』に所収の索引をとても重宝していたはずです。
最近では、CD-ROMでより精緻な検索が出来るようになりました。角川書店から、『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』(伊井春樹編)という大変ありがたいものが出ています。私はもっぱらこちらのお世話になっています。
索引による用例調査は、聞き慣れない言葉が出てきた場合や、その言葉の語感が知りたい場合に欠かせない作業です。作中でその言葉がどのように使われているか調査することで、その言葉の意味が見えてくるということがあります。あるいは、ある人物を形容するのにある特定の言葉が用いられている!などということが分かれば、作品の新しい読み方が提示出来るかもしれません。
多くの(特に若手の)源氏研究者(及び見習い)は日々索引を引き引き、物語の言葉に対する理解を深めようと、また、物語を読み解くためのキーワードを見つけようと、努力しているのです。
また、『源氏』以外の平安文学作品についてもほぼ「索引」は出揃っているので、院生になれば、それらを活用することも求められます。和歌は『国歌大観』という江戸時代までの和歌を出来る限り網羅した本があるのですが、そちらも角川書店からCD-ROM化されており便利に検索できるようになっています。和歌研究者は必ず使うことになっているものです。
このように、索引が便利になったことは歓迎すべきこと、なのですが、一方で手軽に索引が引けるせいで、手軽な研究が量産されるようになってしまった・・・という声も聞こえないでもありません。
言葉は文脈との関係性の中で読まなければならないのに、文脈を無視した用例調査の結果が「研究論文」として発表されることもままあるように思います。
大切なのは、便利な道具をどのように生かすか、索引で得た調査結果をどのように論にするのか、そこに研究者の力量が試されていることは言うまでもありません。
私なおは、学部生のころ何を思ったか「一度は索引を使わずに『源氏物語』の用例調査をしてみることが大事なんではないか!?」と思い、索引を用いない用例調査に挑戦したことがあります。
じっくり読みながら、というわけにはいかず、急いで字を目で追いながら必要な言葉を探す・・・という感じでしたが、なんとかレポートの期日に間に合わせて『源氏物語』の「寝たまふ」と「大殿籠もる」の用例を取り終えたのでした。
用例数がさほど多くなかったことも幸いしたかと思いますが、興味深い場面は思わず読み耽ってしまったり、となかなか楽しい作業でした。
空き時間を使って、用例調査をしていたので大学の控え室のようなところでもせっせと、『源氏物語』を走り読みしていたのですが、そこをある友人に見られてしまったことがあります。
友人「なおちゃん、何してるの?」
なお「『源氏』の用例調査、○○先生のレポートなんだけれども、索引使わずにやってみようかと思って・・・」
友人「なおちゃん、目を覚まして。窓の外の空はあんなに青くって、なおちゃんは女子大生なんだよ。一番良い時代なんだよ。なにをやっているの??もっと大事なこといっぱいあるはずだよ!!それを用例調査だなんて!」
うーむ。友人の忠告を聞いておいた方が良かったような・・・
20歳の夏の思い出でした。
「手の内」シリーズ、なおがまた私事に追われている時に登場するかもしれません。
最後に下世話なお話を少し。
今回ご紹介した『源氏物語』のCD-ROM。26万!!いたします。
『国歌大観』CD-ROMは、30万・・・・・・
発行部数が少ないので、仕方がない面はあるのですが。
手元にあれば便利だな・・・と思うことは多いのですが、とても手が出ません(泣)
それでは、タモンにバトンいたします。
諒です。今回は、「ますらをぶり」ということについて、少し。
まず始めに、このテーマに関して私はまったくの素人だということをお伝えしておかなければなりません。「ますらを」について論文を書いたとか、調べているとか、賀茂真淵の研究をしているとか、教育に情熱を燃やしているとか、そんな事実はございません。従って今回はほぼ感想です。でも、気になったので取り上げてみました。
事の発端は、高校で古典の先生をしている知り合いとお茶をしていた時でした。高校で萬葉歌を教える難しさのひとつに、中学校までに「萬葉=ますらをぶり」と教育されていることがあるという話を聞いたのでした。
中学校で学んだ萬葉の知識を高校まで覚えていることにまず感心しますが、やはり「萬葉=ますらをぶり」観にはちょっと疑問を抱きます。『萬葉集』に触れた事のある人にはご理解いただけると思うのですが、4516首もあるこの歌集において、「〈ますらを〉らしいナア」などと感想をもつ歌は全体の一割もないでしょう。大体、第一首目からしてナンパの歌です(注:見解には個人差があります)。
しかし、□年前に高校で使っていた『新訂総合国語便覧』(第一学習社)には、『萬葉集』について「感情を率直にうたい上げる伸びやかな『ますらをぶり』が基調となっている」(線部太字)とあって、どうも「ますらを」と「ますらをぶり」は若干違うらしいと思い立ちます。
そもそも、「ますらを」とは、立派な男子といった意味で、大伴家持などはこれを官人としての誇りを示す語として用いています。「ますらをぶり」とは、賀茂真淵(1967~1769年)が提唱した用語で、『和歌文学大辞典』(明治書院、1962年)によると「男性的で力強く、統一率直な傾向を意味し、『まこと』『まごころ』また『直き一つ心』などと結びついている」(井上豊氏)とあり、これを参考とすれば、真淵はかなり幅の広い義で用いていたようです。真淵は歌人・国学者としての立場からこれを追求していったのでした。
つまり、「ますらをぶり」は「ますらを」の語義を包括しつつ、更に大きく捉えて、すなおな心を率直にあらわした、おもに男性的な歌風ということのようです。
私は教育現場に全く関わっていないので、いったい中学校や高校で「ますらをぶり」をどのように伝えているのか知りません。授業で教わるのは、例えば以下のような歌でしょうか。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (額田王、巻1・20)
これを「ますらをぶり」で説明するのはちょっと難しいように思います。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さむ (山上憶良、巻5・802)
憶良なら、「憶良等は今は罷らむ・・・」(巻3・337)の方かも知れません。これなら子供を思う素直な心を詠んだということで、「ますらをぶり」で行けるのかもしれません。では、大伴家持の以下の歌。
春の園紅にほふ桃の花下照道に出で立つ娘子(巻19・4139)
もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花(同・4143)
これらを学校で教えるのかは知りませんが、家持の秀歌として有名な歌です。「娘子(をとめ)」の様子が情景も豊かに歌われています。このあたりの歌は、「ますらをぶり」として括るのはかなり躊躇われます。
家持の歌は一般的に繊細で優美と評されています。ただし一方で斜陽貴族として、官人意識も強く、「ますらを」の語は天皇に仕える武門大伴家を意識させる歌(例えば「喩族歌」巻20・4465など)に見られます。家持は、「ますらを」意識を多く歌に詠み込んだ歌人でもあるのです。
『萬葉集』も第四期になると技巧が光ってきて、平安時代への展開を考えさせるような歌が見られるようになります。だから「ますらをぶり」(すなおで率直な表現)の全盛ではないのでは?ということも可能です。しかし、家持の周辺で多く「ますらを」が歌われており、その語を冠する真淵の「ますらをぶり」という概念もこの時期の歌の特徴を覆っていないわけはないと考えられます。でも実際、「技巧が光る」或は「技巧を模索した」この時期の歌は「ますらをぶり」の考えとはそぐわないようなものが多い。
とすると、そもそも「ますらをぶり」という言葉自体に問題があるのかも知れません。というよりも、真淵の考えはそれとして、現在の学問状況に合せた理解が必要だと思います。真淵やその門下生たちの場合、萬葉の歌風を「ますらをぶり」、平安時代の歌風を「たをやめぶり」というのは、『萬葉集』や『古今集』以下の歌うたに親しんだ結果として共感されたもののはずです。でも、古典や歌の初心者にとって、果してその概念は古典の理解にどれだけ有効なのでしょうか?先の額田王の歌を伝えるにも、憶良の漢籍や仏教の知識による表現の工夫を土台とした歌を伝えるにも、家持の繊細な様子を表現した歌を伝えるにも、「ますらをぶり」では限界があるのでは?教育の現場で概念の形成は大事ですが、実際とそぐわない枠組みは混乱を招きます。伝えたい歌があるなら、伝わるように伝えなければなりません。自戒も込めて。
勝手なことを書きましたが、これは私が自由な身分で(つまり無責任)あるためです。これをきっかけに、教育に活かせるような、新しい枠組みを考えてみたいですね。
以上、感想でした。
こんにちは。中世文学担当のタモンです。
前回に引き続いて、「弱法師」についてお話しようと思います。
えーと、今回注目したいのが、能「弱法師」です。
次回に、三島由紀夫の『近代能楽集』「弱法師」と比較してみたいと思います。
まず、「弱法師」の舞台は聖徳太子創建と伝えられる天王寺(現在の四天王寺)です。
この寺は病人や貧窮者、身体障碍者などを救済する悲田院が設けられ、社会から見捨てられた人々が集う特別な場所でした。風が吹きだまりに埃を集めてしまうように、天王寺は階層からこぼれ落ちた人々の拠り所だったのです。もとは地元の名士の息子であった俊徳丸は、父に勘当された今は盲目の乞食となり、天王寺に集まる人々の一員です。
余談です。映画「もののけ姫」でエボシ御前がハンセン病に罹患した人々を製鉄業に携わらせていましたね。エボシ御前は森の神・デイダラボッチを退治する近代的思考を持つ表れとして、差別されて行き場のない人々に仕事を与えている人物であることも、映画では描かれています。あのような描写は、宮崎駿が考える中世的世界だったのでしょう。
差別の問題は、「弱法師」の結末にもほのめかされています。盲目の乞食こそ、勘当した息子・俊徳丸と気づいた父・通俊は、夜も更け人気がなくなった頃、父であると名乗り、俊徳丸とともに高安の里に帰ります。これは、地元の名士である父が、乞食と関わりがあると周囲に知られるのを恐れているからです。ここには、社会からはずれた者に対する厳しい中世社会の現実が浮きあがってきます。
天王寺は、単なる生活の場ではなく、信仰の場でもありました。天王寺の西門は、極楽の東門と向かい合っているという信仰が浸透していたからです。極楽成仏を願って西門から海に入って自殺する者がいたほどでした。天王寺の西門と石の鳥居の間は、あの世とこの世の境界と考えられていました。人々にとって、仏に救いを求め、来世での幸せを想像して極楽往生を願うのは、ごく自然のことだったといえるかもしれません。
天王寺の西門になぜ…?というのはよくわかりません。西門には聖徳太子の自筆とされる「釈迦如来転法輪処、当極楽土東門中心」と書かれた額があります。『梁塵秘抄』巻二極楽歌には「極楽浄土の東門は、難波の海にぞ対へたる、転法輪処の西門に、念仏する人参れとて」とあることから、平安時代末期にはその信仰が流布していたことがわかります。シテの登場場面で、シテが「石の鳥居やこれなれや」と鳥居を杖で探り当てたり、シテ柱へ身をこするようにしたり、シテ柱を左手や杖で撫でおろしたりと、さまざまな演出方法があります。
クライマックスで、暗闇のなかに生きる俊徳丸が、難波の風景を心眼で見て狂乱するのは、『観無量寿経』に説かれる「日想観(じっそうかん)」の考えが背景にあります。日想観とは、浄土を観想するために、西に向かい太陽の没するさまを観想することです。社会の最下層に位置する弱法師が、日想観を口にし、心眼で美しい海辺を「見る」ことができる奇跡が起きます。「おう見るぞとよ、見るぞとよ」と舞を舞いながら、それを見つめる透徹とした眼差しは美しいです。しかし、その風景を見ると同時に、俊徳丸はよろよろと転び伏し、それを見た人々が嘲笑することで、現実へと一気に引き戻されます。そして父子が帰宅という結末。
このように、父と子の再会によるハッピーエンドで終わらせず、「現実」を描いた能「弱法師」だからこそ、現代でも人気が高いのかもしれません。「弱法師」の作者・観世元雅という人は、現実と救いの相克を描くことに長けていたと思います。中世は宗教が濃厚にたちあがってくる時代です。いくつもの戦乱、飢饉、自然災害があり、死が今よりもずっと身近でした。そのなかで、元雅は冷めた眼で宗教と人との関わりを見つめているといえるでしょう。
□平安貴族たちは、犬派?猫派?
諒からバトンタッチされて、一月半ぶりに戻って参りました、なおです。
突然ですが、皆さまは犬派ですか?それとも猫派ですか?
私なおは、かなりの犬好きなのですが諸事情でなかなか飼うことが出来ず、道で会うワンコを見つめて、目の保養をしています。(道行く人をじろじろ見たら失礼ですけれども、ワンコならいいですよね!?)
猫も結構好きで、道端で物憂げにしている猫なんかがいると、つい話しかけてしまったりします(我ながら、怪しい・・・)
犬も猫も好き、なんて言うと「それは、本当の犬好き(猫好き)ではない!!」なんて、言われてしまったりもするのですが・・・
さて、平安貴族たちが犬派だったか猫派だったか、と申しますと、彼らは断然、猫派でした。
『源氏物語』愛読者の方は、真っ先に、若菜上巻の有名な場面を思い浮かべたのではないでしょうか。
光源氏の若くて高貴な妻、女三宮(おんなさんのみや)はある春の日、蹴鞠をする貴公子たちの前にその姿をさらしてしまうのですが、そのきっかけになったのが、女三宮のもとで飼われていた、子猫でした。
女三宮は、蹴鞠の様子を御簾の近くで眺めていたのですが(当時としては、とても不用心な行動だとされています)、ちいさな猫が、別のもう少し大きい猫に追いかけられたのに驚いて、御簾をめくりあげてしまったのです。
蹴鞠をしていた貴公子の中には、かねてから女三宮を慕っていた柏木(かしわぎ)と呼ばれる青年がいました。(通常だったら絶対見られないはずの)女三宮の姿を見てしまったことは、もちろん彼の恋心を、一段と燃え上がらせることになったわけです。
悲劇的な恋のはじまりに、追いかけっこをする猫たちが描かれる・・・実に印象的な場面です。
このように、猫は『源氏物語』で活躍しており、注目度が高いのです。
(なお、古典文学に現れる猫について知りたい方は、色々文献はあるのですが、まずは是非、田中貴子著『鈴の音が聞こえる―猫の古典文学誌』(淡交社、2001)を手に取ってみてください。中世文学の研究者である田中貴子さんは高い学問性と分かりやすさを両立させた本をたくさん書いておられ、ファンも多いのですが、この本も一般の方にも読みやすい(かつ内容がしっかりとしている)一冊です。ご自身も大の猫好きを公言している著者の思い入れがたっぷりつまっていて、装丁も美しく、たくさん載せられている猫の絵(江戸時代のものが中心)も、もちろん内容も本当に楽しい本だったのですが、残念ながら絶版となってしまったようです。少し大きな図書館ででも、お探しください。)
□ワンコたちの出番 ①狩猟犬
では、犬はどうなのか・・・
先にも、述べました通り、平安貴族たちは、断然猫派、犬はなかなか活躍の場が与えられません。
『源氏物語』では、浮舟巻にほんのわずかな出番があるのみです。浮舟という女性が住まわされている宇治の邸のあたりを野犬がうろついていて、おそろしい声で吠える、という言及がちらりとあるのですが、これは犬を描こうとしたというよりは、宇治の邸の物寂しい様子を強調する文脈の中に、犬が用いられた、というのが正しいでしょう。
犬好きの私としては、随分ひどい扱いだ!!と、憤慨したいところです。
でも、『源氏物語』で犬がこのように扱われているのは、仕方がない面もあるのです。
紐をつけられて室内で大切に飼われていた猫たち(当時の絵をみると、猫はたいてい紐付きです)と異なって、当時犬を人間と同じ生活空間で飼う習慣はなかったようです。
(女三宮の猫は、唐からやってきた貴重な「唐猫」でした。詳しくは、河添房江著『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書、2008がおすすめです)
平安時代の文献に現れる犬で現在の「ペット犬」に近いのは、私が調べた範囲では、①狩猟犬、②野犬が人になついて可愛がられている、のどちらかが圧倒的に多いように思います。
まず、狩猟犬ですがこれは文字通り、貴族が狩りを行う際に獲物を捕らえた犬たちです。狩猟犬には、舶来の犬もいました。淳和天皇(在位823~833)に渤海国から「契丹大犬」二匹とその子犬二匹が贈られているという記録があります(『類聚国史』)
淳和天皇は、この犬たちを連れて、早速鹿狩りに出かけたようですが、ワンコたちは、異国でとまどったのでしょうか、どうやらあまり活躍出来なかったようです。
狩猟犬は、ペットではありませんが、丁重に扱われました。天皇の、それも外国からやってきた狩猟犬だったら、なおさらでしょう。ただ、ご主人自ら犬の世話をするようなことはなく、専門の「犬飼」(いぬかい)という従者が犬の世話や訓練を行っていました。
『大鏡』には、そんな犬飼がどのように犬を扱っていたかが、伺われる一節があります。
醍醐天皇が、大原野(現在の京都府西京区)に狩猟に出かけた時のことです。天皇の外出(行幸)ですから、お供(いわば「政府高官」のお歴々です)がたくさん供奉しているのですが、そのお供たちの誰かに仕えている犬飼の行動が、醍醐帝とその場にいた人々の注目を集めました。
なにがしといひし犬飼の、犬の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸につかうまつりたまへる人々、さながら興じたまはぬなく、帝も、労ありげに思し召したる御気色にてこそ、見えおはしまししか。(引用は『新日本古典文学全集』)
(何某とかいった犬飼の、犬の前足を両方自分の肩にかけて(背負って)、深い桂川の瀬を渡ったことを、行幸にお供なさった人々、誰一人面白く御覧にならなかった方はなく、醍醐帝も、その犬飼を(犬飼の道に)熟練した者らしい、とお思いになったご様子にお見受けいたしました)
町を歩いていると、よく「抱っこ」されたままお散歩する犬を見かけます(最近では、「バギー」にお乗りになるお犬さまも!!)。
一体あれは、「犬の散歩」なんだろうか・・・と、考え込んでしまうのですが、ここに出てきたのは「おんぶ犬」です。
(「抱っこ」でなくて、「おんぶ」なのは、この時代、人(女性)を運ぶ場合でも「抱っこ」よりは「おんぶ」することが多かった、という事情によると思われます。)
もっとも、この猟犬が犬飼に甘えて「おんぶ」を要求したのではなく、これから狩猟で活躍しなければいけないのに、川の水に濡れて体調でも崩したら大変だと、犬飼の男が判断をして、背負うことにしたのでしょう。
そして、その判断こそが、帝を始めとする貴族たちをして、「さすが、犬飼の道を極めるべく、努力と工夫を重ねてきた者だ!」と感嘆させることになったのだと思われます。
もちろん、そのような庶民の努力をきちんと見ていて、ちゃんと評価出来る醍醐天皇の英明な君主ぶりこそが、この場面がもっとも強調したいことなのですが・・・
私は、どうしてもワンコの方に注目してしまいます。
前足二本、人の肩にかけて川を渡るワンコ・・・
可愛くて萌えませんか?
(現在の、獣医学的には「犬をおんぶする」のは、やってはいけないことなんでしょうか?なんか、足が無理にひっぱられそうですよね・・・)
次回は、野犬が人になついて可愛がられている例として、清少納言と宮中に居着いていた犬「翁丸」との交流について、また、案外と平安時代にも現在の「ペット犬」のような生活をしていた犬がいたかもしれない、ということを書けたら、と思っております。
また読んでいただければ、幸に存じます。
それでは、次々週の担当、タモンにバトンいたします!!