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2012/09/30

こんにちは。タモンです。

私は関東在住なのですが、これから台風が来るようです!

 

この間、ゲリラ豪雨に遭遇して全身濡れネズミになりました。

バケツをひっくり返したような雨だったので、傘を持っている人も雨宿りしていました。

そのなかを、……そのなかを!!、15分も歩いたんですよ!

……今日は、風も吹くのか。明日は晴れるかな。

 

さて、今日は小野小町伝説について書こうと思います。

 

小野小町は、クレオパトラ・楊貴妃とともに世界三大美人の一人として知られています。

クレオパトラはエジプトの女王でした。カエサルの愛人となり、彼の援助によって一度は追われた王位を回復させ、後、アントニウスというローマの将軍と結婚します。彼女の最期は、二番目の夫・アントニウスの敗戦の末の自殺を聞くと、毒蛇に身をかませて亡くなったと伝えられます。

 

楊貴妃は、玄宗皇帝の皇子、寿王瑁(まい)の妃でしたが、皇帝にみいだされ貴妃となりました。楊貴妃は、舞や音楽にすぐれ、また、聡明さゆえに皇帝の寵愛を一身に集めた。そのため政治が乱れ、「安祿山の乱」の際に殺されました。

 

クレオパトラと楊貴妃は、美貌と聡明さをあわせ持つ身分の高い女性です。

それゆえに、とでもいいましょうか、二人の最期は悲劇性を帯びています。

 

それでは、小野小町の最期はどうだったのかというと、よくわからない!!!というのが実情です。

 

しかし、中世から近世にかけて、小町にまつわる伝説は全国各地に多く生まれています。

小町にまつわる伝説は、本当に多いです。

それらは、中世にも、近世にも、近代になってからも作られていったと思います。

 

小町の史実を踏まえておくと、彼女は生まれた年も没年もわかっていません。

生まれも、名字から小野氏の出であることはわかりますが、詳しいことがはっきりわからないのが実情です(いろいろ推測はされてますけどね)。

 

はっきりしているのは、『古今和歌集』等の勅撰集に和歌が入集されていることなんですね。

 

『古今和歌集』に掲載された和歌が小町のイメージを形作る種になったようです。

小町が活躍した時期は、文徳・清和・陽成朝(八五〇~八八四)あたりと考えて良いようです。

 

小町は、情熱的で奔放な恋歌を詠む一方で、人生の儚さ、虚しさを詠む歌も詠みました。

 

小町の歌から、三首をご紹介したいと思います。

 

◆わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(『古今集』雑下・九三八番歌)

(訳)私は、寂しく心細く、わが身を嘆いて失意の日々を送っておりますので、もし、真実、誘ってくださる方があったならば、浮草のように、わが身の根を絶ち切ってどこへでも行ってしまおうと思っております。そのような方がいらっしゃるでしょうか。

 

*この歌から喚起されるのは、流浪する女性のイメージといったところでしょうか。

 

◆みるめなきわが身をうらと知らねばや離れなで海人の足たゆくくる(『古今集』六二三番歌)

(訳)お逢いする気持ちがないわが身を、海松布(みるめ)が生えていない浦と同じだということをご存じないせいでしょうか。浦に通う漁師のように、足がだるくなるまで毎夜熱心に通ってらっしゃることよ。

*この歌には、男を拒絶する女性の態度が詠まれています。この歌で詠まれている女性像には、小町が男を拒絶する女性だというイメージの原型があるような気が私はします。

深草の少将の「百夜通い」の発想もこんな歌が源流にあるんじゃないかなぁ、と想像しています。

 

◆花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(『古今集』春下・一一三番歌)

(訳)花の色はすっかりあせてしまったことよ。私があらぬ物思いにふけり外を眺めているうちに、花が春の長雨にうたれて散るように。

 

(註)(訳)は新編日本文学全集『古今和歌集』の現代語訳を引用した。

 

*この歌は、百人一首に入っているので小町の歌のなかで一番有名だと思います。「ふる」は「(時間が)経る」と「(花の色が)古る」、「ながめ」は「長雨」と「眺め」が掛詞になっています。

「花の色」は「花の美しさ」であり、「自分の美貌」の比喩です。

ここを解釈するとき、小町と詠まれている女性が同一視されてきました。

小町は自分が美人であることを暗に言っている「イヤミな女」である!という解釈がされることもありました。

いやーー、そう言われれば確かにそうなんですけど……。

 

最近では、この歌が『古今集』の「春」の部に入集されているので、「春」の歌であることに重きを置く解釈の方が優勢のような気がします!

 

前者のような解釈が伏流となって、中世では、零落した美女・色好みの美女といった小町のイメージを形作っていったのかもしれません。

 

ここで一回切りたいと思います。

次回は小野小町伝説の具体例を見ていきたいと思います。

 

それでは。

 

 

06:35 | rakko | 小野小町伝説をめぐって① ~まずは小町の歌から~ はコメントを受け付けていません
2012/08/31

一月ぶりのなおです。よろしくお願いします。

一月経っても、『タチアーナ』熱が冷めないなおは、「このすばらしい感性の持ち主がロシア語に訳した源氏物語を、一行でも良いから読んでみたい」と切望するあまり、ついにロシア語の独習用のテキストを買ってしまったのでした。

しかし、ロシア語!これほどの手強い言語はなかなかないのではないでしょうか。 なにせ、Tは、手書きの筆記体ではmになりでも読み方はTだったり、Pかと思ったら、音は巻き舌の英語のrに近かったり・・・不器用ななおは、巻き舌出来ません。 アルファベットの時点で既に挫折しそうです。これでは、一生かかってもタチアーナさんの『源氏』は読めないのではないかと最近はしょんぼりしています。(ロシア語学習が、論文書きの気分転換になるかも、という夢は既に打ち砕かれました)

さて、なおが夢中になった『タチアーナの源氏日記』について、前回語り尽くせなかった部分を熱く語りたい(Junk Stageの精神に立ち返って!)と思います。

『タチアーナの源氏日記』は、タチアーナ・L・ソコロワ=デリュシーナさんが『源氏物語』のロシア語訳を行っていた、1979年から1991年までの記録を再編集して一冊にまとめたものです。 1979年から91年といえば、ご承知のとおり現在のロシアが、ソビエト連邦だった時代です(ソビエト解体は91年12月25日)。

体制下の、物資不足や文学(特に日本文学を初めとする東洋文学)への当局の無理解、等々が、タチアーナさんの翻訳活動の前に立ちはだかります。しかし、彼女はそれらを全面に押し出して描くことはしません。生活の困難や、当局の締め付けはもちろん著者の翻訳活動を圧迫し、浸食するのですが、それでもあくまで研究者であり翻訳者であり続けるタチアーナさんは、外的な困難のせいで内的世界がやせ細ることはありません。本書には、タチアーナさんの写真も掲載されていて、それを見る限りいかにも知的で端正な北方美人なのですが、その美しい容貌の奥に秘めた、知性の圧倒的な強靱さに、私はただただ打たれるしかなかったのです。印象的な場面を抜き書きしてみます。

半日がかりで店を回った。キャベツを買いたかったのにどこにもない、乳製品も。大豆とマリネ漬けのビーツを買った。それからカーチャ叔母さん(夫セリョージャの叔母。長いこと病んでいて一九七九年頃から寝たきりになっている。彼女はイリインスコエのわが家に七六年から一緒に住み、八四年に亡くなった)のために雛鳥を二羽。今日はほとんど机に向かわなかった。 夜に(略)最近日本から送られてきた『源氏物語絵巻』のアルバムを眺めた。「吹抜屋台」の原理ほどテキストの性格をよく映し出してくれるものはない。読者の視野の真ん中に次から次へと個々のエピソードが立ち現れて、あたかもアップで迫ってくるかのようだ。同様の効果は現在形と過去形の文法的交替からも生じる。(1982年3月15日)

生活の困難にもめげず、文学研究者としての思索を続けるタチアーナさんですが、誰もが彼女のように生活と同じ価値を文学に求められる訳ではありません。

昨晩、モスクワに来た。今日は出版社に行った。店に商品がないという話でもちきりだ。(略)私が『源氏物語』で悩んでいる個所を編集者に相談しようとしたら、彼女はこう言った。「石鹸がないのよ、言葉なんてどうだっていいでしょ」。ごもっとも。でも石鹸は一時のこと、作品は一生のことだ。(1989年9月18日)

ロシアの知的階級の伝統を受け継ぎ、かつ『源氏物語』を原文から(英訳や日本の現代語訳を頼りにせず)ロシア語訳した人だからこその誇り高さは次のような箇所からも伺えます。

(研究所時代の友人と会って) 国を出るのと残るのとどちらがいいか、という尽きることのない議論。(略)アーロチカはあっちで暮らすほうが物質的のはるかにいいと踏んで出て行こうとしている。ヴォロージャはこっちでは創作上自己表現ができないと思い込んでいる。(略) 私が出国できないのは、第一に、もしかしたらもう二度と会えないかもしれないと知りながら肉親と別れる決心がつかないからであり、第二に、私にとって創造的な生活はここでしか不可能だからだ。もちろんある期間日本に行って住んでみるのはやぶさかではないが、ロシアからまるっきり出てしまうことは私にはできない。(1980年8月17日)

しかし、タチアーナさんのこの志を、理解できない人もいました。日本への渡航許可を求めに行き、却下された次の場面は圧巻です。

パパと一緒にコルパチスィーへ外国人ビザ登録部の部長アレクサンドル・マクシーモヴィチ・ジェムチェンコに面会に行った。先客なんてないのに一時間半も待たされた。ぶくぶくした赤ら顔と極太ソーセージみたいにずんぐりむっくりした指に金の指輪を幾つもはめた、いけ好かないやつ。全身舶来ものをまとっているのは言うまでもない。私に椅子を勧めることさえ頭に浮かばないらしい。 「まったくあなた方の強情さ加減には驚きだ。親父さんが旅行しようってところにあなたまで―なんか変じゃないかな」 また、『源氏物語』は世界文学の最も偉大な作品で、ロシア語に翻訳されねばならないとする私の申告に対しては、 「じゃあ、我が国のは最も偉大じゃないんですか、『イーゴリ軍記』は?」 「ヨーロッパではどこでも翻訳があるのにロシア語だけないんです」 「だったら英語から訳しゃいい、そうすれば日本にも行かなくてすむ」 「そういうわけにはいきません!」 「翻訳者が優秀ならやれるでしょう」

こんなやつらと話をしなくちゃいけないなら、私はどこへも行きたくない!(1981年10月8日)

(結局、ソ連解体後の1993年までタチアーナさんは来日することがありませんでした)

この本の魅力をご紹介したい、と思い2回に渡って連載してきましたが、とても伝え切れませんでした。是非本書を手に取ってみてください。タチアーナさん自身の魅力と、彼女の住居であるモスクワ郊外の別荘地の魅力を存分に味わえるだけでなく、タチアーナさんの精緻で的確な分析によって、『源氏物語』の魅力をも改めて感じさせられる、とてもお得な一冊です。

11:49 | rakko | 『タチアーナの源氏日記』について② はコメントを受け付けていません
2012/08/31

こんにちは。諒です。

ああ…。

勉強が。勉強が進まない。

はたらけ、私の脳みそ。――いや、はたらいたところで高々知れたところではありますが。以上、近況報告でした。

 

普段、日本の神話とか伝説とか、上代の散文を読むことが多いと、つい忘れがちになっているのですが、実は風土記って文学史の中ではマイナーなんだよなー、と(つい数分前に)思いまして、今回は、風土記の話を書こうと決めました。(文学史とかを真面目にやっている方には不用な話ですが)

さて、「風土記」という語は普通名詞でありまして、「諸国の風土、伝説、風俗などを記した地誌」(日本国語大辞典)、つまり地方毎の情報をまとめたものです。(NHKの番組で「新・風土記紀行」とかありますよね)中国では六朝時代に「風土記」を書名とした地誌(例えば晉の『周処風土記』など)が存在したそうです。日本では、和銅6年(713:『古事記』が撰進された翌年)に風土記の「撰進の詔」が発せられ、それを受けて各国で自国の歴史や伝説、土地の状態などをまとめる事業が行われました。完成品は逐次朝廷に提出されたはずですが、多くは散逸の憂き目にあい、全体像を知ることはできません。

その中で、唯一完本の状態で伝わったのが『出雲国風土記』。それから、ある程度まとまった状態で残ったものが、常陸・播磨・肥前・豊後で編纂された四書です。他に、後の文献に引用されたために残ったものを「逸文」と呼びます。奈良時代に撰進された風土記は普通名詞と区別して、「古風土記」と呼ばれることもあります。

そんな風土記の、(私が、個人的に。)面白いと思うところなどを少し。

風土記は、執筆に際してどのような事を取り上げるか、一応の決まりごとはありましたが、各国がそれぞれの立場で記すものですので、地域性といったものがよく見られます。

例えば、『出雲国風土記』を読んでみると、誰もが不思議に思うことがあります。それは、記紀で出雲国の出来事として大きく取り上げられている、スサノヲのヤマタノヲロチ退治の神話が、風土記には見られないことです。このことは、スサノヲの神話が元来、出雲国で伝承されていた話ではない可能性が高いことを示します。風土記を通して、記紀神話の成り立ちを考えることができるのです。

『出雲風土記』にはスサノヲの神話は書かれていませんが、一方で記紀に見られない神々による神話が沢山、見られます。中でも興味深いのが、現在の島根半島を作り上げたという、ヤツカオミヅヌノミコトの「国引き神話」です。島根半島は、この神が初期の国土の小さいことを憂えて、新羅などから余っている土地を引っ張ってきて、縫い合わせたものなのだそうです。神が意宇(おう)という土地に、事業完了の標として立てた杖が木となって残っていると書かれてあります。このように、モニュメントを証拠として、土地の由来や特徴を語る、という方法が風土記にはよく見られます。そして、実はこの木、現在もかつての意宇の地(現在の松江市)に有るのです。その信憑性はともかく、伝説の力を考えさせられます。そう、ロマンです。

「国引き神話」などは、中央の歴史に決して記されることのない、現地で編纂されたものだからこそ残った神話です。風土記は神話・伝説の宝庫ですが、短編集のようなものなので読みにくいかもしれません。ただ、最近はテキスト類も充実してきているので、ぜひお手にとってみてください。自分の住んでいるところや旅先の土地の、意外な由来を発見できるかもしれません。

09:09 | rakko | 風土記のこと はコメントを受け付けていません
2012/07/31

更新が遅くなってごめんなさい。なおです。

実は、多くの文系院生は、7月末から9月末ごろまで、夏休みなのです(ちょっと小声)平日に美容院などに行くと「今日はお休みなんですか~?」とか「夏休みはいつですか~??」とか聞かれて、気まずい気まずい。 (勤勉におつとめしている皆さま、ごめんなさい)と心の中で何度も唱えることになります。

でも、院生にとっての長い夏休みは、純粋な休みではもちろんないのです。夏休みは論文を書く時間。学術雑誌の〆切も夏休み明け頃に設定されているものが多いです。

というわけでこの夏も、らっこの会メンバーは、私なお、タモンと諒三人共々、せこせこ論文書きにいそしんでおります。

そんな中、気晴らしにと思って読んだ本がすばらしかったので皆さまにご紹介したいと思います。

タチアーナ・L・ソコロワ=デリューシナ著・法木綾子訳『タチアーナの源氏日記―紫式部と過ごした歳月』(TBSブリタニカ、1996)

『源氏物語』のロシア語全訳を成し遂げた、タチアーナ・ソコロワ=デリューシナさんが、『源氏』の翻訳を行っていた日々の記録をまとめて出版した本です。「日記」という題ではありますが、翻訳当時の日記を再構成し、翻訳出版後の日本滞在記などを加えられている点では、回想録としての性質が強いといえるでしょう。

ちなみに、なぜタイトルに「タチアーナの」とつけられているかと言えば、これ以前に、『源氏物語』の英訳を行ったエドワード・サイデンスティッカー氏が、『源氏日記』を出版されていたからだと思われます。

特筆すべきは、著者(以下、「タチアーナさん」と呼ばせていただきます)が、大学や研究所に専属の研究者としてではなく、主婦としての家事に追われる日々の中で、『源氏物語』の完訳というとてつもない仕事に取り組んでいる点です。「セリョージャ」として登場する夫君(中国・日本の美術研究者)と叔母さん、親戚の子供たちの食事や洗濯の世話をしながら、その合間をぬって『源氏』やその周辺の作品を読み、研究し、平安時代のことばをロシア語に翻訳すべく苦闘しているのです。

四年前の春、私は『源氏物語』を訳し始めた。そして数年間編集者として働いた出版社プログレスを退社した。それ以来まるで二つの自然に生きているような奇妙な生活を送っている―『源氏物語』の世界と、この平凡なモスクワの世界と。ときには、どちらの世界が現実で私のものなのか、迷うこともある。(1980年2月28日)

紫式部の歌を、ピローグの焼きあがる間や食事の支度、洗濯の合間に読む。(1980年7月28日)

タチアーナさんは、モスクワ郊外の別荘地に住み、そこでの四季の移り変わりを鋭敏に感じ取って日記に記していきます。それから、一緒に暮らしている家族たちの幸せな描写が、この本をいっそう魅力的なものとしています。

三輪のチューリップが藤色の花をつけたが、朝サーシャが匂いを嗅ごうとして一輪折ってしまい、ずっと泣いていた。家は鬱蒼とした緑に囲まれ、別荘の間の小道を時折通る人がいてもそれが誰だかわかるのは、長身のセリョージャだけとなった。もうじき満月、夜になると木々の枝に月の明るい顔が漂う。(1981年6月5日)

夜、「朝顔」巻の手直しをした。サーシャはテーブルに「百人一首」のカルタを広げた―これはあの子のお気に入りの気晴らしの一つで、名づけて「日本人ごっこ」。(1980年6月17日)

明るいよく晴れた一日。窓辺の自分の机に向かっていると、セリョージャが木戸に新聞を取りに行く姿が、そして彼の後を犬のエノートが澄ましてついていくのが見える。幸福で和やかで安らかな気分。(1982年1月17日)

そして、次のような描写を見つけると、『源氏物語』の研究者(見習い中)としては、共感を禁じ得ないのです。

三日前の激しい嵐で、庭中に折れた小枝が散乱している。「野分」の巻の嵐の後の光景が思い出される。どこかで電線が切れたらしく、明かりがつかない。蝋燭をともす夜が続く。(1986年9月2日)

実生活の中で起きる様々な出来事や、自然の現象等を過去に書かれた物語と重ね合わせることが出来るのは、物語を愛し、繰り返し読んでいる者に与えられる喜びでしょう。

また、主婦であり、生活者でもあるタチアーナさんが生活を通じて『源氏物語』への洞察を深めている場面もあります。

あるジャムを作った日の日記。

朝からイチゴジャムを煮た。これもまた夏の風物詩。(略)面白いことに、『源氏物語』では食べ物にはあまり関心が払われていない。宴に限らず、単なる日々の食卓にしても細かな描写がどこにもない。十一世紀の日本人は米のおかゆと果物のほかに何を食べていたのかよくわからない。食の賛歌が皆無だ。(1980年7月12日)

しかし、タチアーナさんの本領は、この生活者としての感性のこまやかさと、研究者として、そして文学を愛する知識人としての感性の確かさが見事に両立している点にあるように思います。そのあたり、『タチアーナの源氏日記』については、まだまだ語り尽くせていないので、次回も続きを書きたいと思います。

『源氏』に興味があり、ロシアの文学や文化にも親しみを感じている方には是非この美しい本を手に取っていただきたいです。ただ、残念ながら今は古書での入手のみ可能なようです。もしよろしければ、大きな図書館等で探してみてください。

 

11:46 | rakko | 『タチアーナの源氏日記』について① はコメントを受け付けていません
2012/07/31

こんにちは。タモンです。

毎日暑いですね。

 

今回、タモンは、大河ドラマの感想でお茶をにごそうと考えていました……。

 

気付いたら大河ドラマは保元の乱・平治の乱が終わり、平家全盛の時代へと突き進んでいます。

 

しかし。

 

それすらも出来ない状況におちいっています(泣)

 

「春夏冬中」な感じは嬉しい限りといえば嬉しいのですが……。

 

もっと体力が欲しいです。効率よく動く脳みそもほしい。

 

次回こそ!

 

このコラムで、日本の判官びいき(敗者に人気が集まること)の文化と、韓国映画などで描かれる復讐物を比較して、感想を書いてみたいです。

 

次回予告!を宣言しておきまして……。

 

タモンでした。

10:36 | rakko | 春夏冬中 はコメントを受け付けていません
2012/06/30

こんにちは。タモンです。

 

大河ドラマ「平清盛」もいよいよ中盤ですね!

視聴率の面で苦戦しているようですが、タモンは相変わらず楽しく見ています。えーーっと、いろいろな面でツッコみどころ満載ですよ。だけど!!

……この前の○や、○○、もうちょっと前の○○○とかより、「平清盛」のほうがよっぽどマシだと思うのですが。タモンの意見は少数派かな…、と思ったりします。

 

ところで、世田谷パブリックシアターで、「薮原検校」を観劇しました。

井上ひさし作

野村萬斎=二代目薮原検校/秋山菜津子=お市/浅野和之=語り手の盲太夫/小日向文世=塙保己市/熊谷真実/山内圭哉/たかお鷹/大鷹明良/津田真澄/山﨑薫/千葉伸彦(ギター奏者)

栗山民也演出

 

野村萬斎ならではの軽妙洒脱な感じが、薮原検校の野心家っぷりとマッチしていて、予想以上に楽しめました。私は「国盗人」よりも、こちらの悪人ぶりのほうが好きです。

萬歳自身の身体にシャープさが増したのかな……。持ち味の茶目っ気たっぷりのユーモラスさに加えて、この舞台では怜悧な感じを彼の身体から感じました。

 

悪の限りをつくす薮原検校と、品性の限りをつくす(言い方変ですが)塙保己市という「社会的弱者」の存在によって、観客席にいる私たち自身の「悪」が浮かび上がってくる構図を狙ったのだろうと思います。

 

あと、語り手の盲太夫役の浅野和之ですね。

わたしは三階席で観ていたので、始めのほうでは聞き取りにくい部分があったのは事実です。だけど、それ以上に盲太夫の間合い、テンポで魅せられましたし、なによりも一人でこの舞台が目指す世界観を形作っていたところがあっぱれだと思います。

しばらくして盲太夫の語り口に入り込むことができました。劇場の大きさによって、全ての人にはっきり聞こえるように話さねばならない、語り手という役の困難さをひしひしと感じた次第です。

 

今回は簡潔に、こんな感じでしめたいと思います。

 

 

 

11:55 | rakko | 藪原検校@世田谷パブリックシアター はコメントを受け付けていません
2012/06/30

こんにちは。諒です。

個人的なことですが、わたしは研究者を目指すには、どうにも読書量が少なすぎて、普段から反省しているのです。そんな状態ですので、あまり本の紹介とかはしない(できない)のですが。でもまあ、今回、古事記繫がりということで、漫画の感想などを書きたいと思います。

取り上げる本は、こうの史代『ぼおるぺん古事記』(平凡社、2012.5)。実はこの作品、以前から平凡社のサイト「web連載」[http://webheibon.jp/kojiki/]で順次公開されていて、おそらく編纂1300年記念に合せて書籍化されたのだと思われます。「web連載」もまだ続いているので、興味のある方は見てみてください。

この漫画に特徴的なのは、古事記の訓読文をそのままに、文もセリフも古事記のとおりに展開させているところです。ところどころに注が付いていますが、現代語訳とかは一切無くて、本文を絵とコマ割りで説明しているといった感じです。

一般的に、古事記のように物語性に富む神話や説話は、現代においてその面白さを伝えようとした場合、原文(或は訓読文)をそのまま提示するよりも、現代語訳や解説を活用する方が、初心者にはわかりやすい。古事記で卒業論文でも書こうか、という状況になるとさすがに、本文そのものを味わい、解釈する必要が出てきて、中には理解のために絵でも描いてみようという人もいるかも知れない。しかし、漫画家といった創作に関わる職業の人が、本気で絵とコマ割りで原文に対する解釈を表現しようとするのは、めずらしいように思います。そういった意味で、本作は『あさきゆめみし』などとは違った、挑戦的な試みと言えるのではないでしょうか。

こうの史代の作品は以前にほんの少しばかり読んだことがありますが、無言の場面で状況を展開させるのがとても上手な漫画家だと思います。本作もそれが効果的に用いられています。本作を古事記を勉強する学生が読んだら、どんな感想が出るのか、興味があります。絵がメインなので、色々と想像力が刺激されて、導入として使えるかも、と思うのです。次田真幸『古事記』(講談社学術文庫)や新編日本古典文学全集『古事記』(小学館)などの現代語訳が付いた注釈書を横におきつつ読むと、より面白いかも知れません。

さて、こんな具合で個人的にはおススメしたい作品なのではありますが、問題がひとつ。それは、もとにしている訓読文に少し疑問がある、ということ。

古事記の上巻冒頭は、次のようにはじまります。

「天地初発之時、於高天原成神名…」

この部分、本書では「天地(あめつち)の初めて発(ひら)くる時、高天原に成れる神、名は…」とされています。古事記を現代の研究をもとに、少しばかり勉強している者は、大抵ここで、「ん?」と思います。「天地初発」の「発」を「ひらくる」と訓ずるのは、あまり馴染みがないからです。Web版でこの訓読を目にしてから、訓読文の底本が気になっていたのですが、今回の書籍版には、丸山二郎『標柱訓読 古事記』(吉川弘文館)とあります。丸山二郎は古典の校訂などに従事して業績を残した歴史系の学者で、『標注』は1965年に出版されました。

調べてみると、「発」には古写本のなかでもわりと古いものには「ヒラケシ」、室町以降の写本には「ヒラクル」とあって、この訓が根拠のないものではないことがわかります。「発」にも「ひらく」の義があるので、訓としては無理なものではない。実は現代の注釈書のなかにも「ヒラク」の訓を採用しているものが存在します。それでも問題となる理由は、「天地がひらく」という表現が古事記の訓みとして適切かどうか、疑問となるからです。「ひらく」は、戸や蓋を押しひろげる意味で用いられる語で、古事記においても、たとえば天の石戸をひらく場面に「開」とあるなどの例が見られます。上代の文献で「ひらく」は、戸のようなものを「わけひらく」というイメージなのです。古事記の「天地初発」は、「天地」が分裂して「ひらかれた」ということでしょうか。「発」にそうした義を読みとれるでしょうか。「ひらく」の訓みに疑問をもち、現在では「おこる」「あわはれる」といった訓の可能性が提唱されています。

何故このようなことにこだわるかというと、より安心して人に紹介したいからです。研究者という人種は、総じて細かいことが気になる性質を有しているのでありますが、文学の分野では特に上代の専門は非常に細かいようです(*あくまでも個人的な意見です)。「発」の例でもそうですが、何というか、切り口が細かい。対象としている資料が全て漢字で書かれているために、仮名成立以後では問題にもならないようなことが研究の対象になるのです。『ぼおるぺん』が『標注』を底本とするのは何か理由があるのでしょうけれども、もし本書が読者層を少しでも古事記を触れたことのある人を対象としているのであれば、ぜひともその理由を知りたいところです。

勝手なことを書いてしまいましたが、要は試しに読んでみてってことです。以上、拙い感想でした。

12:48 | rakko | 漫画の感想など はコメントを受け付けていません
2012/05/31

なお(平安文学専攻)です。

ここ1~2年、私の周りではちょっとしたベビーブームで、友人たちが次々と出産しています。日々成長していく赤ちゃんたちの姿って、本当に見飽きないものですね。いつか私自身が子供を育てる日が来るのか、それは不明ですし、来るとしてもまだまだ先のことになりそうですが、友人たちの赤ちゃんに会うことは最近の私の大きな楽しみになっています。 (ちなみに、特に文系の研究者見習いは、研究者としての地盤が固まる=就職が出来るのが、かなり遅いものですから、必然的に晩婚・高齢出産が多い気がします。)

親となった友人たちが語る赤ちゃんの話は、人が誕生し、成長するプロセスの不思議さに溢れていてとても興味深いのですが、例えば赤ちゃんがある日右手を発見し、しばらくの間、じっと右手を見つめる・・・などということは、実際に子育てをした人でなければ、なかなか知らないことではないでしょうか(なおは、知りませんでした)。

ある赤ちゃんは、母乳の一部を吐き戻してしまうそうで、友人はガーゼで吐き戻しをせっせとぬぐってあげていました。吐き戻しは、赤ちゃんの胃がまだ未発達で、飲んだ母乳を消化しきれないために起こることで、健康上の心配はないそうですが、友人は赤ちゃんの吐き戻しをきれいにしてあげながら、「これもとは、私の血液なの!!せっかく飲ませてあげたのに!」と主張していました。赤ちゃんは悪くありませんが、たしかにちょっともったいないと思ってしまいますよね。

この吐き戻しというのも、子をもつ親御さんたちにとっては常識なのかもしれませんが、私なおは、実際に友人の赤ちゃんが吐き戻してしまうのを見るまで、全く知らないことでした。

ところが、この赤ちゃんが「吐き戻す」現象、実は『源氏物語』にも描かれているのです!

「横笛」巻に赤ちゃんが「つだみ」(=吐き戻し)をする様子が描かれています。光源氏の息子である夕霧と、その妻・雲居雁の間に生まれた赤ちゃんが、夜泣きをして「つだみ」をする、という場面なのですが、この場面、ちょっとしたホームドラマになっていて、なかなかおもしろいのです。ちょっと、詳しくお付き合いください。

夕霧は、幼なじみで従姉である雲居雁という女性との恋を実らせ、たくさんの子供の父親になり、幸せな家庭を築いていました。ところが、夕霧は亡くなってしまった親友、柏木の未亡人である落葉宮に恋慕してしまいます。落葉宮はその母親と共にひっそりと暮らしているのですが、夫を失った寂寥感の中、しっとりと優雅に暮らしている親子の姿に、夕霧は「あはれ」と感動をせずにはいられないのでした。

それに引き替え我が家は・・・と夕霧は思います。人の出入りが多く、子供たちが騒がしく、妻である雲居雁は、貴族らしい風流な心持ちも忘れ、忙しく立ち働いています。

夕霧が落葉宮邸から自邸に帰ると、妻雲居雁と子供たちは既に格子をおろして寝ていました。雲居雁からすれば、夫が落葉宮に執心しているのがおもしろくないのです。夫の帰りを待たず休んでいるのは、夕霧へのあてつけでもあります。 一方の夕霧は、風流な落葉宮邸に比して、月夜に月を愛でることもなく、さっさと寝てしまう自邸の妻や子供たちにうんざり。格子を上げて、御簾を巻かせて、「こんなに美しい月夜を楽しまないで、寝てしまうなんて。情けない。」などと言って、雲居雁を叱る始末。

子供がたくさんいたりすれば、女性は忙しくてそう優雅でもいられなくなり、ましてや(いくら一人の夫に対し複数の妻妾がいた平安時代の女性であっても)夫がよその女性に心を移せばおもしろくないものだと思いますが、夫としては優雅なよその女性と自分の妻を比べてしまうものなのでしょうか。落葉宮に不器用に恋慕しながら、自邸に帰って風流人ぶる夕霧、いい気なものだと、「イラッ」とさせられます(私だけじゃないはず)。

そうして、格子あげたまま、ちょっと寝入ってしまった夕霧の夢枕に亡き友柏木が立って・・・・・・。ここは、物語進行上とても大事な箇所なのですけれども、長くなるので省略させてください。

ともかく、夕霧が格子を上げたために、故人が夢枕に現れたのですから、夕霧の傍らで寝ていた赤ちゃんも敏感に反応しないではいられなかったのでしょうか。赤ちゃんの泣き声で、夕霧は目を覚まします。

この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騒ぎ、上も御殿油近く取り寄せさせたまひて、耳はさみしてそそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。 (この若君がひどくお泣きになって、お乳を吐き戻したりするものだから、乳母も起きて騒ぎ出し、雲居雁も灯りをお取り寄せになって、額髪を耳に挟んで、せわしなく若君をあやして抱いていらっしゃる)

ここに出てくる「つだみ」というのが、乳を吐き戻すことです。「耳はさみ」は、平安時代の成人女性がフェイスラインに近い部分の髪を少しだけ肩の辺りで切りそろえているのを(=額髪)耳にかけること。生活感溢れる、優雅ではない所作とされました。赤ちゃんが火がついたように泣いていて、お乳を吐き戻してしまったら、母親がなりふりなんてかまっていられないのも道理です。

雲居雁のこの姿は、夕霧をますますげんなりさせるのですが・・・男性読者は夕霧の心情に肩入れしてしまうかもしれません。子育てに余裕がなく、秋の夜の趣深さを自分と共に分かち合おうともしない情緒のない妻が相手では、優美なよその女性に心を移しても仕方がないではないか・・・と。 物語が描き出す夫婦のすれ違い、現在にも通じそうで、紫式部の筆のさえを感じさせますね。

さて、この場面は結構有名な場面で、実は私はこれまでに何度か読んでいるはずの場面だったのです。でも「つだみ」、赤ちゃんのお乳の吐き戻しについて描かれていたことについては、読み飛ばしてしまっていたのか、これまで気にとめることはありませんでした。友人の赤ちゃんの吐き戻しを実際に見た後、たまたまこの場面を読んでいて、『源氏物語』に「吐き戻し」が書かれている!!とびっくりしたのでした。紫式部には、大弐三位という母よりも出世した娘がいますが、赤ちゃんを間近で見た経験がこういう細部の表現にも生かされたのでしょうか。

私は、14歳の頃初めて『源氏物語』を原文で(もちろん現代語訳を頼りながら有名な場面をピックアップしながら、ですが)読み始めました。それから、もうずいぶん長い間この物語を読んでいることになるのですが、『源氏物語』を読みながら、ときたまはっとさせられるのは、自分が年を重ねるにつれて、物語のどこに着眼し、感動させられるかが変わってくるということです。いつか子育てをする日(来るんだろうか・・・)、「老い」を自覚する日(これは確実に来るでしょう・笑)、多分私は『源氏物語』の今まで気付かなかった新たな魅力に気付かされるのではないだろうか、と思っています。

『源氏物語』はどの年代の人が読んでも、男性が読んでも女性が読んでも自分の人生の経験に照らし合わせて共感できる箇所を備えた、懐の深い物語だと思います。もちろん、全編通して読めればそれに越したことはありませんが、一部を読むのでも十分に楽しむ事が出来ます。(それ以前の巻で起こった出来事をある程度押さえていないと理解出来ないところはあるので、必要に応じてあらすじを読んでおくと分かりやすいと思います。小学館から出ている「古典セレクション」版『源氏物語』が梗概や注、現代語訳も備えていて便利です)。

とりあえず、子育てに苦労していたり、ちょっぴり倦怠期になっている(!?)夫婦の皆さんは、夕霧と雲居雁、そして落葉宮の物語である「横笛」巻、「夕霧」巻をピックアップして読んでみるのはいかがでしょうか。物語が意外と身近なものとして感じられるのではないかと思います。

11:55 | rakko | 赤ちゃんがいる風景~『源氏物語』の「つだみ」 はコメントを受け付けていません
2012/05/30

〔牛、見つかりました〕

諒です。更新が遅れて申し訳ありません。
以前、捜索を(勝手に)お願いしていた牛ですが、見つかりました。失踪してから数日後、まだ種を植えていない、ある畑の真ん中にこんもりとした物体を発見。牛でした。無事に牛舎の奥さまの手で連れ戻されたということです。(奥さまの言うことしか聞かないのです)
答えは意外と近くにありました。前回の記事をご覧になって、少しでも「おやまあ」と思って下さった方、ありがとうございます。今後、野良牛を見かけたらまず農協に通報を。

〔『古事記』編纂1300年記念☆〕

さて、前回の「さわらび」の歌と関連して、今回は問題の「わらび」について書こうか…と思っていたのですが、ちょっと時期がずれたので、来年にします。(!!)

今回は、『古事記』について。
今年、『古事記』の編纂から1300年ということで、各地でえらい盛り上がりを見せております。…と言いたいところですが、盛りあがってはいなくはないけれど、『源氏物語』や「平城遷都」に比べたら地味~なものです。(このパターン、しつこいですね)
とはいえ、神話の舞台のひとつ、島根では確かに盛り上がっているようです。「神々の国しまね」というスペシャルサイトも開設されているのでぜひご覧になってみてはいかがでしょう。(交通の便が悪いとはいえ)もともと観光に力を入れている県で、よく整備されていますし、『古事記』や神話に少しでも興味がある方にはおススメの土地です。観光にはレンタカーがあるとよいかも。

そんな感じで、地味に認知されている『古事記』1300年ですが、雑誌や新聞の記事などでも、たま~に関連した話が見られます。私もすべてを確認しているわけではないのですが、たまたま目にした記事で、ん?、と思ったことについて、少し。
その記事には、以下のような内容が書かれてありました。(引用文ではなく、諒による要約です。記事に対する批判・批評が目的ではありません。)
『古事記』は712年に太安萬侶が編纂したとされる日本最古の史書で、漢字表記による和漢混淆文で記されている。編纂から1000年後、本居宣長は『日本書紀』を重んじる漢籍(からぶみ)めいた風潮を是正し、日本古来の心を問い直さんとして詳細な注釈『古事記伝』を著した。記念の年に、現代の我々も改めて『古事記』からいにしえの日本人の心を読み直そう。
…というもの。気になるのは、当該記事が宣長の『古事記』観に無批判であることです。

〔『古事記』の文章〕

本居宣長は、漢文体で書かれた『日本書紀』を「漢籍(からぶみ)」めいた書としてこれに重きを置く風潮を批判します。そして、『古事記』を「古ヘの実(マコト)のありさまを失(ウシナ)はじと勤(ツトメ)たる」書、つまり古いことばをそのままに伝えようとした書、と位置づけ、その前提のもと、詳細な注釈『古事記伝』を著しました。私が目にした記事は、その説を前提としている。「フルコト」を純粋に近い形で伝えているとする、宣長の『古事記』観はつい最近まで主流で、今でも例の記事のように、信じられているようです。ところが近年、研究が精緻を極めてきたことにより、さらに発展した見解が提示されるに至っています。

どういうことかというと、『古事記』の文章を詳細に分析してみると、それがとても丁寧に構成されていることがわかります。たとえば、漢字の選択であったり、話の繫げ方であったり、そうした部分にブレが無い。とても整理された書物であることが実感できます。

そういった文章表現や物語性のある内容から判断されることは、『古事記』は古い伝承をそのままに伝えているのではないということ。実は、伝承をより古く伝統的なものとして伝えるために、文章を練りに練っている。結果、『日本書紀』の記述方法などと比べて、より熟した内容と位置付けられるというのが近年の研究成果です。つまり、『古事記』は「すぐれて文学的な歴史書」とでも言えるでしょうか。

ということで、私のような単純思考の持ち主は、『古事記』と言うと、内容的には「新しい」ようなイメージを持っているのでした。なので、宣長の『古事記』観が未だにそのまま受け入れられているのを見ると、違和感を覚えるのです。今回は具体例もなくざっくりした話になりましたが、機会があれば、如何に『古事記』が文章に工夫を凝らしているか、といったことに言及できたらいいなー、などと思っております。

ところで、来年は『風土記』撰進1300年です!間違いなく『古事記』より地味な感じになるでしょうけれども、『風土記』の世界もなかなか面白いですよ。出雲だけでなく、常陸や播磨、九州でも盛り上がることを期待しています。

01:41 | rakko | 記念の年です はコメントを受け付けていません
2012/04/30

こんにちは。なおです。
先日、あるファッション誌のエッセイを読んでいたら(研究者見習いだって、たまにはファッション誌を読むのです。個人差はあると思うけれども)

「友人が「学者」という珍しい職業の人たちと合コンをした」

という文言が目を引きました。

「学者」(というか「研究者」)って、世間からするとすごく珍しい存在なんだ!!
と、今さらながら驚かされたのです。

たしかに、「研究者見習い」である私は、変わった、異質な存在として扱われることが多いですし、一体何をやっているのか、不思議がられることも多いのです。
それこそが、このコラムを書く動機ともなっていたのですが、日々研究者および研究者見習いたちに囲まれて生活していると、自分たちの方が「普通」な気がしてしまうから恐ろしいことです。人間は所詮、自己を中心としてしか世界を認識できないということを、思い知らされます。

ちなみに、世間の人たちにとって、「研究者」の世界が異世界であることは、先に引いた雑誌の記事の「学者」という呼び名にも現れていて、実は、自分を「学者」と自称する「学者」は今ほとんどいません。自分で自分を「学がある人」と呼んでいるようで、謙虚さを大事にする日本の社会にはなじまないからです。(同様に、肩書きとしての「○○大教授・准教授」等を自称として用いる人も少ないです。たいてい「○○大で教えています」「○○大の教員です」などと言います)

それで、「学者」に代わる呼び方として、「研究者」が用いられています。
「私は研究を仕事にさせてもらってますけれども、その結果私に学があるかどうかは皆さんに判断してもらうとして、職業の呼び方としては、学があるなしの価値判断を含まない研究をする人という意味の「研究者」と統一させていただきますよ」というわけです。

研究者は、謙虚とは正反対の性格の持ち主が多いので、余計に謙虚ぶろうとする傾向が強いように思います。(理系のことは分からないのですが。文系よりは堂々としているイメージがあります)

そんな珍しい?「学者」もとい、「研究者」および「研究者見習い」はどこに生息していて、どこに行けば出会うことができるのでしょう。

結構前だったかと思いますが、男女の様々な恋愛の特集を組むことで有名な某女性誌に、

「研究者になる前の院生男子を青田買い」

というような文言が踊ったこともあったようです。「ネタに尽きて院生か!!」と一部で(つまり、院生達の間で)話題になりました。

その『a○○n』によれば、院生男子と出会うためには、大学近くのカフェで、Macを操作して何か打ち込んでいる若い男子を見つけるのが、コツなのだそうです。

・・・・・・それって、すごーーく限られた範囲の「院生男子」では??

私なおは、割とカフェで作業するのが好きで、大学近くのカフェでも作業をするのですが、日本文学科の院生としてはかなり例外的なケースだと思います。だって、カフェに重たい本は持って行けませんから。本当に大事な作業は家か大学でしか出来ないのです。
そして、日本文学、特に古典の研究者および研究者見習で、Macを使う人はまずいません。理由は簡単、研究にどうしても必要なCDROM等が、Windowsにしか対応していないから。

というわけで、大学の近くのカフェで、Macを操作している男子は、日本文学専攻の院生ではない(可能性が極めて高い)。

ということが、おわかりいただけましたでしょうか(どうでもいい情報ですね)。

例外的にカフェユーザー、でもネットブックは東芝のdynabookな日文院生であるなおは、『a○a○』の記事以来、大学近くのカフェでMacユーザーの若そうな男子に注目してみることにしました。

そして、なおが遭遇した、極めて限定的な範囲で言えば(論文用語で言えば「管見に入った例に限って述べれば」)、

大学近くのカフェでMacを操作している男子は、社会学系の研究者(と見習い)が多い(気がする)。

いや、チラ見して目に入った本のタイトル等から推測しているだけなので、間違っているかもしれませんが。
理系男子は、ほとんどラボに籠もっていて、大学近くのカフェなんてあまり使わない気がします。ラボで飲み物が自由に飲めるだろうしね。(このあたり、一言で院生といっても、専攻によって事情が大きく異なるところ)

それで、あなたがもし『an○○』の特集をたまたま目にしていて、「院生男子結構いいじゃない」と思っていたとしてでもですよ、カフェで声をかけるチャンス(?)がある相手は、社会学系の院生男子なんです(多分)。

それで、あなたがもしその社会学系(多分)の院生男子と晴れてお付き合いすることになって、社会学系の院生男子は結構おしゃれな人も多いので(多分。でもMacユーザーなくらいですから)うきうきで新宿御苑にデートに行ったとします。

そこでうっかり「やっぱり自然の中って気持ちいいね!」なんて口にすると大変なことになります。

「自然!?公園、つまりパークは、もともと王侯貴族の狩り場だった場所を、都市計画の一環として整備して、都市部におけるレジャーの大衆化に伴って19世紀イギリスでパブリックパークとして一般に開放されたのが始まりなのであって、自然とはほど遠い人為的な産物だから!!」

などとまくしたてられかねません。社会学の専門家はこのようにメンドウクサイ人々なのです(偏見)。

と、ここまで書いてきて、同じような面倒くささで周囲に迷惑をかけている日本文学専攻の院生諸氏のエピソードを思い出しましたが、彼ら彼女らが私のせいでもてなくなったら困るので書かないことにします。

専攻に関係なく「院生」「研究者」ということで、一括りに「変わった人」とされるのは、納得いかない!!!と、院生たちはよく不満を漏らしますが、実際似たり寄ったりなのかもしれません。

というのも、1000年昔の『源氏物語』にも、「学者」は「変人」として登場するからです(こっちが本題だったけれど、前置きが長くなりすぎて割愛)。自身も「学者」の娘である紫式部が描き出す学者たちの姿もそのうちご紹介出来ればいいな、と思っています。

最後に、肝心の??、「日本文学専攻の院生」にどこに行ったら会えるか、ですが基本的に彼ら彼女らは、研究室か大学図書館にいることが多いので、やはり普通に生活していたらなかなか遭遇しないだろうと思います。

しかし!大学図書館が休館している時には、公共図書館に姿を見せる時もあります。
大きな公共図書館なら、結構専門書も充実しているのです。
日本文学関連の書籍が並ぶフロアで、大量の資料を自分の席に集め、一刻も無駄に出来まいと黙々と目を通している人がいたら、その人は院生の可能性が高いでしょう(日本文学専攻ではないかもしれないけれども)。加えて、その人がせっせとコピーを始めたら、そしてそのコピーの仕方が実に熟練して手慣れていたら、その人が文系院生である可能性はさらに高まることでしょう(やはり他専攻である可能性はぬぐえませんが)。
実際、日本文学専攻の院生にとって、コピーをとることは日常の一部。あらかじめしおりを挟んだ本をさっと広げ(どこをコピーしようかコピー機の前で悩むのは「お素人」)、次々とページをめくっては、コピー機のボタンを押す(決して、コピー機のカバーを下ろすことはない)一連の動きは、日々コピーをとり続けた人にのみ出来る職人技?です。

ゴールデンウィーク、お時間ある方は文系院生男女を見に、公共図書館に足を運ばれてはいかがでしょうか(そんな人いないか・汗)。

ちなみに、「らっこの会」で一番コピーを取るのが上手いのは諒です。
無駄のない動きで、手早く、綺麗なコピーを取ります。

(次回はもうちょっと学術的な話が出来るようがんばります。)

11:24 | rakko | 「異世界」の住人!?~「文系院生」との出会い方 はコメントを受け付けていません

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