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曲独楽の 手入れをしながら
毎回必ずすることは
心棒の磨きと 曲がっているかどうかのチェックです
なかば 儀式か 無意識になっているのです
いつも必ず 流れとして体に覚えこむことというのは
そういうことは 緊張する現場に係わると
どういう場面でも
皆さんすることと思いますけど
自分がストレスを受けた経験と
それを 越えた体験があるからこそ
生まれる流れですね
最近の レストランの メニュー 表示と 内容が 著しく違うという事柄が 話題になりましたが
どういうことなのでしょうか
ニュースにまでなって 消費者庁の偉い人まで出てきてコメントしたりして
もう止まらないんじゃないのって 思ってしまいます
ここには いろんなことが入っているから
いつまでたっても スッキリしない話題になっている…
日本語の表し方
日本の都市部の考え方
農産物生産地の 経済的事情
行政の方の上から目線
放送局の慣例表現・何でも縮めて言う、キツイコメントが来るとそれに合わせちゃう風潮
もちろん
経営の側と調理担当者がぜんぜん一緒に活動できない環境にある…という大企業が
今回舞台なのですが…
消費するということ以外に 農業生産側とまったく接点が無いのは
どう考えても 本当は一番危ないことなんじゃないかと
私は思っちゃいます
危険この上ない…
電気を作っていたのが あの
原子力発電所…
自分たちの体を作っているのは
…果たして 何なのか?
どこからきて
どうやって ここまで運ばれているのか?
実に 不思議だと思いませんか?
土地に そのまま 種をまいて
健康にまったく悪影響なく
発芽した作物を食べられるということは
本当に 実は
まれな事なんじゃないのかと
最近思うようになりました
だって
私が小学生の頃 1960年~1970年頃は
できたものが
どこから来て
誰がどういう風に運んでいるのか
ほとんどのことが ちゃんとわかっていたということです
劇的に手に取るものが変わっていったのが
たぶん1970年代も後半の頃…
私の肌感覚で言うので とてもわかりにくくてすいませんが…(^^;)
住んでいる駅の前に お菓子屋のチェーン店ができた
駅の反対側に ファミリーレストランが開店した
隣の駅に マクドOルドができた
仲良かった肉屋が閉店した
幼馴染の魚屋が貸アパートになった
PTAの運動で通学路にあった貸し本屋と
駄菓子屋と映画館が無くなった
小さい町は こういう風に変わっていきました
劇的に変化するのが
国営の鉄道 国鉄の民営化の頃です
※当時の事が 少しわかる記事は以下
http://www.asahi.com/articles/TKY201310190256.html#
私の住んでいた地域には 大きな国鉄職員向けのマンションがあり
数百世帯が住んでいました
マンションは環状七号線にあって
中学校はそのすぐ隣に建っているという良い条件の場所にありましたから
私の同級生は国鉄職員が結構多かった
この地域はそのマンションがあったことで
にぎやかだったのだということは
私自身子ども過ぎて わかるまで時間がかかったし
実際に8年前頃 中学校が 統廃合で無くなってから実感が湧くことになりました
本来 そこで生まれた私の世代が
そこに住んでいたならば
学校は変わらずあっただろうし
店を継ぐ子もいただろうと思います
商店街がほとんど店を閉めたことで
今の雰囲気が出来上がったということ…それは
住んでいる人がもう東京都内でも高齢者の割合が高い現状
そして 借家に住んで家賃を払っている人が大半で
私のように
親が離れた場所にいるという人が本当に多いということです
(我が家の場合;父が現役の芸人で元気でやりたいうちは愛媛に迎えることが幸せとは思わないので当分「遠距離見守り隊」ということです…)
食べ物の事で言っても
親がずいぶん野原でとれる食べ物を 子どもの頃に教えてくれたので
大人になってからも 苦労することが無い現状は感謝が尽きません
特に
都市部の生活が日常風景になっていると
自然物と人工物の区別のつけ方に
普段 自然物に囲まれている人と比べて
大変な違いがあるという事実に気がついて
そこから
基準として持っている「味」「色の感覚」「体の基礎体力」などが
ぜんぜんかみ合わないことにも
実際にその変化をまざまざと体験して理解することになりましたので
勉強はするものだと思いました
誰でも当てはまることですが
自分の経済状況が悪くなることには
協力的になれるはずはありませんよね…
この偽装するということには
それがぴったりとはまり込んでいて 取れることがありません
経済的にとても驚くような変わり方を数十年ごとに見せるけられている私たち
消費する側にとっては
もう 「好き」と「嫌い」しか 選択肢が残っていませんから
こういう風に 「頼るべき何か」を
大きな「信頼関係」という姿で提示されれば
そこに身を置くしか
都市部で生活する側としては無いのですから
こういう「軽い裏切り」は
やはり「不快」につながって
結果 「バッシング状態」を生んでいくんでしょうね…
これからも 続きそうで
なんとも情けないですね
しかし
食べ物を作るということは おいてきぼりです!
国産の食料がどれだけ手をかけて
体力と そこの人の知恵の恩恵を受けているのかについては
まったく語られることはありません!
ジャOーズのタレントをイベントに派遣したとか
Oみます芸人としてそこに住んでるからとか
そういうことではまったく接点が生まれませんので
所詮は
大きなタレント事務所の利益と大きな流通機構の宣伝なのであり
個人として言えない事が増えますし
自分の意見を言ったら所属事務所をはずされる恐怖と隣り合わせの活動です
気の毒ですが 大きな会社に所属するということは そういうことなのです
この「B級グルメ」「B-1グランプリ」というイベントと
「郷土料理」「地場産」という表現の相反する言い方には ものすごい違和感があります
地元に住んでいる側 子どもたちの授業には 「郷土料理」で紹介し
地場産料理を開発する「○○甲子園」みたいなことができたりしています
同じ食べ物でも大きな会社に出してもらうと
「B級グルメ」で 販売しています
なんなんでしょう
節操がありませんが
容認しているのです
…上から目線の大きな会社やシステムに対する不信
農村の疲弊は今に始まったことではないからです
日本は歴史的に農村の搾取でどの地域も戦争や飢饉、天災を切り抜けてきていますから 無理もないのです!
だって第二次大戦のあとからですよ!
ほんの数十年弱しか 自由な環境で経済活動が成り立っていないということです
企業の中の環境だって 同じなのだということです
「ムラ」的経営や政治
自治のことも全部一緒です
日本はまだ
地域の活力の残り火で
切り抜けられてきたから
今まで大丈夫だったに過ぎないのです!
日本の人が農林水産業から離れていったら
国土を活用する人がいなくなったら
国土が荒れるのは目に見えています
会社の仕事を好きでしなかったら
転勤も嫌いになるし
成績悪くて降格されたら会社の敵対会社に情報を流したりするかもしれないでしょ
だって大きな会社だから 多少評判落ちたって大した業績悪化にはならないから
自分がもうかったらいいもん…自分がスッキリしたら構わないじゃん…
どっちも同じですね
まあ 今の地域のことに関係あることを書くならば…
里山という綺麗な言葉には 隠れているイメージがあります
山のや 谷に住んでいる人
数百年…そこで長く暮らしています…
ほとんどがそうです
しかし
生活の手段として新しく拓けた 「道の駅」
その姿はどうでしょうか…
(※皆さんに知っていただきたいのは
私が取り上げている話に出てくる物事を直接糾弾して悪く言うつもりはないということですけども
語らずにいるのも見ている私には 大変なストレスですので
JunkStageさんの コラム上ではきちんと言わせていただくのです)
なぜ
生産している側のほうが
経済的に圧倒的に弱くなってしまっているのか!?
道の駅の成立の事情は
各地域でぜんぜん違います
私の住む 愛媛県の内子町の地域では
「限界集落」になりつつある場所がたくさんあるので
その苦心して作ったものが
地域の道の駅としてあるはずでした
しかし
多くの道の駅が
「観光用」としての顔を押し出しすぎて
本当にしなければならない
地域を良くする為の活動と無縁の雑事が増えている悲しさは
いったいなんでしょうか
お客さんを呼ばなければ
(都市部で流行しているものと同じものを作ろう)
(デザインがいい包装紙はどこで買ったらいいのかしら…大学にコーディネートを頼んでみよう)
何かしなくては
(イベントをしてくれる会社を知ってる町に行って紹介してもらおう)
…そうじゃないでしょう…と私は思うのです
自分の体を動かして汗をかいてみてから考えなくちゃいけないのに体が冷えるからといってコタツに入って運動しないようなものです
そういう誰かの利害だけでできているような 閉鎖的な環境を見ていると
子どもに間違ったことを教えてしまいそうな恐怖を感じます
どうしたらいいのか わからなくて 本当にストレスがたまったことがあったのですが
わかったことは
自分のすることに責任を持つということでした
だから 私も責任を持って行動して 間違っていたら きちんと正して謝るということを
当たり前に繰り返していこうと考えます
少なくとも
外食する時は きちんと考えて マナーを身に着けながら高めていきたいですよね…
誰だって 叩かれて痛い思いをしなければ
本当に腑に落ちて活動する責任を実感することは出来ません!
…それまでに 願わくば 基礎的な地域の人の力が失われないように 祈るばかりです