こんにちは、タモンです。
中秋の名月、秋分の日が過ぎ、もうすぐハロウィーンです。
今年も残り三か月。
心は浮きやかに、
態度は淡々と、粛々として日々に臨みたいと思います。
今回、秋ということで、能「松虫」を取りあげたいと思います。
能「松虫」のあらすじは…。
津の国(現在の大阪府)阿倍野に現れた男の亡霊。男は、松虫の音を聞きながら、生前友と交わした友情を思い出し、酒宴の舞を舞う。
舞台は阿倍野。
テレビ番組「月曜から夜ふかし」で「あべのハルカス」という高層ビルが建つことを知りました。その阿倍野です。
この能は、『古今和歌集』仮名序「松虫の音に友を偲び」という箇所について、『古今和歌集』の注釈書『古今和歌集序聞書』(別名・三流抄)の解釈を下敷きにして、あらすじを仕立てています。
男の亡霊が友情のために舞を舞うというのは、能では珍しいモチーフです。
そもそも、亡霊が現世にとどまる執着心の中味がよくわからない。
なので二人は恋仲だったという説もあります。愛する人を先に亡くした男が、亡霊となっても二人の思い出の松虫(待つ虫)の音を聞いているうちに、自分もまた松虫の精霊になっていくような感じがする…。そんな解釈です。
中世において、男色はひとつの愛の形であり(実態がどうであれ)、文化の一角をなしていました。
妄執を抱える理由として、友情よりも恋情のほうがしっくりくるという説も納得できます。
タモンは、詞章を読むかぎり、友情でもいいじゃん!と思っています。
「心の友」が自分より先に死んだことがあまりに悲しくて亡霊となった男の物語でも、不自然さはない気がするのです。
が、この解釈は現代的なのかもなあ…とためらう部分も。
いわゆる、日本文学で「友情」を「発見」した人は誰なんでしょうかね。武者小路実篤?そんなわけないか。
タモンが一番好きな箇所はクライマックスのここです↓
シテ/面白や、千草にすだく虫の音の
地/機(はた)織る音の
シテ/きりはたりちやう
地/きちはたりちやう、つづりさせてふ、きりぎりす・ひぐらし、いろいろの色音の中に、別(わ)きてわが偲ぶ、松虫の声、りんりんりん、りんとして夜の声、冥々たり
※きりはたりちやう→キリ・ハタリ・チョウは機織りや虫の音の擬音語。
※夜の声→通常、鶴の鳴き声に用いられる表現だが、ここでは「夜の静けさをやぶる虫の音」の意で用いられる。
昔、「音」は「声」でした。
『平家物語』冒頭「祇園精舎の鐘の声」のように、「鐘の音」ではなく「鐘の声」でした。
能「芭蕉」に、「芭蕉に落ちて松の声、あだにや風の破るらん」
という異格の表現があります。
芭蕉葉を破り、吹き落とす松風の音。
その風音が「松の声」と表現されています。
能「松虫」では、
松虫の音を「夜の声」とします。能「小督」にも見られるものの、珍しい表現です。
静謐な夜を破る、「りんりん」という音。
その音が暗闇に融けあっていくさまが、「冥々たり」と表されています。
この箇所によって、
漆黒の闇に包まれた草原で、虫の音、それも松虫の音だけが際だつ風景が立ちあがってきます。
虫の音を「面白や」と捉え、その風流を愛でつつ、
その「声」が響く「夜」も愛しむ感じの表現に心惹かれるんです。
最後、
「朝(あした)の原の、草茫々たる、朝(あした)の原に、虫の音ばかりや残るらん」
と終わります。
夜明けとともに亡霊は消え、「声」ではなく「音」ばかりが響く草原の情景です。