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2013/07/25

孫を抱く手に力が入らなくて困ると、ひとのよさそうなおばさんが言っていた。

「親指の付け根が痺れるの、それだけなのに入院なんて、大袈裟よね。」

心から残念なことだが、この女性は早ければ数年後に、呼吸筋麻痺により死亡するか、人工呼吸器を装着してゆるやかに延命を図るかの選択を迫られることになる。 孫の成長を見守れる時間はそう多くない。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、全身の筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経の病気だ。きわめて進行が速く、発症から数年で、呼吸に必要な筋肉の機能まで失われる。
発症率は10万人に5人程度で、治癒のための有効な治療法は確立されていない。
症状は、片側の手指の細かな運動の障害からはじまり、手の筋力低下や筋萎縮が認められるようになる。手の筋萎縮は、母指球や小指球から起きることが多い。

だけど、手にちょっと力が入らなくなっただけで、そう遠くない将来にからだがまったく動かない寝たきりとなり、飲みこめないから胃に穴を開けることや、息ができないから機械につながれることや、ほかに意思疎通の手段がないから眼球運動をもとにまだ声が出ているうちに録音した自分の声を使って会話をすることを選択する、あるいは、しないなんて、誰が想像するんだろう。
しなければ、死ぬ。すべて命との天秤だ。

世界は少なからず残酷にできている。 これがなにか特別な存在が与え賜うた試練だなんて、言えない。言わせない。

そう多くのひとが知る病気ではないし、その深刻さもまた然りである。
基本的には患者に対して告知がなされるが、家族への説明も必要になる。ある日突然降って湧いたような不幸に、自分を見失わずにいられるひとはそう多くない。

ご家族が同席する告知の日、ひとのよさそうなおばさんはご家族と一緒にいて、お孫さんを抱っこしていた。

「両手を使えれば大丈夫なのよ」

そう言って、笑っていた。
誰もまだ、病状の深刻さを理解していないなかで、医療者だけがこのあとの告知のために心の殻を少しずつ硬化させていく。
なにを見ても、聞いても、それに流されることのないように。この女性にとって最善の医療を提供するために。

 

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※個人情報への配慮について
このコラムは基本的にノンフィクションです。でも、特定の患者さんを話題にするものではありません。
場所も、時間も、患者さんの病名も、病歴も、すべて僕が経験したことを、
ゆるやかに織り交ぜ、一部に変更を加えています。ご了承ください。

2013/07/25 05:00 | kuchiki | No Comments