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そのマンションの入り口の前には、
それほど大きくはない木が一本立っていた。
夏になると緑になり、蝉の声がやかましい。
インターホンを鳴らすと、女友達の声が返ってきて、
すぐに自動ドアを開けてくれた。
エントランスを横切り、奥のエレベーターへ。
ボタンを押すと、5階で停まっていたエレーベーターが、
すぐに1階まで下りてきた。
エレベーターに乗る。
その奥の壁は鏡になっていて、扉が開くと、
まず僕の姿が飛び込んできた。
僕は微笑んだ。
少なくとも不審者には見えない。
眠れぬ夜を幾夜も過ごしてきたようにも見えない。
実際、僕はよく寝てきたから、
眼の下に隈が出来ているはずもない。
ご飯もちゃんと食べている・・・味気ないけども。
微笑みながら、僕は行き先階のボタンを押すのを
すっかり忘れていることに気が付いた。
慌てて10階のボタンを押す。
あんまり遅いと、女友達が心配するではないか。
エレベーターが動き始めて、僕はまた鏡を見る。
ここまで来ても普段と変わりなく見える自分に苦笑する。
自分の姿に見とれていると、
エレベーターが停止した。
10階だ。
降りて右へ廊下を進む、
そして左に曲がった奥が、女友達の部屋だ。
チャイムを鳴らす。
今度は返事もないままにドアが開いた。
「いらっしゃい」
「ごめんね、ピアノ使わせて、なんて頼んで」
「いえいえ」
何というか、儀礼的な挨拶を交わし、
部屋に上り込む。
「どうしてもグランドピアノで確かめたいことがあってさ」
リビングに通されて、私は言った。
実際、そうしたいことがよくある。
僕はピアノの専門家ではないから、グランドピアノは持っていない。
しかし、響きの残し方や、ペダルの使い方について、
グランドピアノでなければ確かめられないことを、
僕はピアニストと合わせる前に自分で確認しておきたい性質なのだ。
「お茶、入れようか?」
女友達の申し出を、丁重にお断りした。
今、下手に喋りたくないのだ。
女性、ましてや音楽家は敏感だから。
さっそくピアノルームに籠らせてもらう。
分譲マンションだから、彼女は一室をピアノルームにし、
そこに防音装置を入れたのである。
置かれたグランドピアノ。
YAMAHA製の、ありふれたグランドピアノ。
実は、贅沢を言うならば、
グランドピアノではない方が良かった。
1840年から1850年くらいに作られた、
フォルテピアノ(古典ピアノ)ならば最高だったのだが、
そんなものを持っている人なんてそうそういるわけはない。
そこは妥協した。
借りやすさと「環境」を最優先したのだ。
僕は楽譜をカバンから取り出した。
取り出す時、少しカバンに引っかかった。
丁寧に引っかかりを取り除き、
慎重に譜面台に置く。
シューマンの曲だ。
作品48と番号を打たれた歌曲集。
もともと20曲だったものを16曲に減らしたのは、
シューマンの卓見だったと思う。
前半2曲の削除は音楽的に、
そして後半2曲の削除はテキスト、ドラマ的に、
存在するとストーリー性を阻害するものだと思うからだ。
だが、今僕の前に置かれている楽譜は、
20曲が揃った自筆譜の状態になっている楽譜。
4曲がある、ということの他に、
どの曲も、出版された時の修正をすべて元に戻し、
最初に作曲された時のメロディや和声、
アーティキュレーションや速度指定になっている。
それをしたのはとある友人だ。
ベルリンから自筆譜のコピーを取り寄せ、
出版譜に修正を加えて行ったのだという。
ああいうのをマニアとかオタクとか言うのだろうが、
自筆譜版に接していると、僕は自筆譜党になってしまった。
友人も説明してくれたが、そこにはシューマンの生の声がある。
無骨だが、禁則も犯してはいるが、
シューマンの本音が聞こえてくるのだ。
今の僕には、この本音こそがふさわしい。
僕はピアノを得意としない。
そうなるとちゃんと弾けそうなのはただ1曲だけ。
7曲目の楽譜を開く。
そこには友人の筆跡で、
「八分音符は突き刺すように弾け」という意味の言葉が、
ドイツ語で書いてある。
シューマンが自筆譜に書いた指示だそうな。
夢中でこの曲を弾いて歌う。
何度歌っただろうか・・・。
突然ピアノルームの扉がノックされた。
「ごめん。子供のお迎えに行ってくるね
買い物もしてくるから、夕飯食べて行って」
留守番を任される程度には信用してくれているのだ。
そして、僕は彼女が子供を幼稚園にお迎えに行くことを計算し、
この時間にピアノを借りに来たのだ。
最後に、心を込めて7曲目を再び演奏する。
突き刺すように八分音符を叩いた右手が少し痛いが、
もう右手を痛めて困る理由はない。
練習室の窓から見える青空。
澄み渡っているが、どことなく悲しい。
溜息を一つついて私は立ち上がり、ピアノルームを出て、
一旦リビングに入る。
女友達の名前を記した封筒を、
7曲目が開かれた楽譜の上に置いてきてある。
リビングには誰もいない。
今は勇気すら必要なかった。
憧れだけが僕にはあった。
そして僕はベランダに出た。
女友達に僕は詫びた。
こんな時に無理を頼んでごめんね。
なるべく遅く帰ってきてね。
子供にショッキングなものを見せたくはないだろうから。
そして西の空に向かって囁いた。
さよなら、僕の青春。
もう一度だけ会いたかったな。
ベランダに手をかけ、身を乗り出す。
あ、あと一つだけ。
Ich grolle nicht・・・恨んでないよ