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思いやりのある人、思いやりのない人、他人を評してどちらかにラベリングすることはあっても、こと自分のこととなると難しい。
はたしてあなたは、思いやりのある人間だろうか。
さしずめ僕などは、誰かを思いやる自分の心のうつろいさえ、そこに偽善や利己のたぐいが混じっていないか疑ってかかるタイプだろう。ああ、生きにくい。
でも、そもそも思いやりとはなにか、説明できるだろうか。思いやりとは、そもそも利己的で、偽善的なものなのではないか。
思いやりというものを科学的に定義すると、“一時的な満足を先送りし、長期的により多くの報酬を得るような選択をすること”と言える。
幼い子どもを例にあげよう。目の前にあるおもちゃを、自分一人で独占し、他の子どもに使わせないよりは、みんなでこのおもちゃを共有し、ひとりではできない遊びかたをしたほうが楽しい。このような思考が思いやりだ。
この脳の働きには、
- 対立する考えを区別する能力(自分がおもちゃで遊ぶのか、相手におもちゃを渡すのか)
- 現在の行動によってどのような未来の結果が生じるかを決定する能力(相手におもちゃを渡した場合に、どのようなことがおきるか)
- 確定したゴールへの行動(みんなでおもちゃ遊びをするために、一度自分がおもちゃを手放す)
- 成果の予測(その結果、自分以外とおもちゃを使えるであろう)
- 行動に基づく期待(みんなで遊べばきっと楽しい)
- 社会的なコントロール(渡さなかった場合、先生や親に怒られるかもしれない)
などの、より高度な作業が含まれる。
このような能力が発達するのに時間がかかるから、幼い子どもはわがままだという訳だ。
ここからわかるのは、“思いやり”が意外と現実的なアルゴリズムで発動しているということ。“思いやり”はある意味で、小さい満足をパスして、より大きな報酬を得るための思考プログラムであるとも言える。
では、すべての思いやりが見返りを求めてのものかと言えば、それは違うかもしれない。ある種の献身とか、自己犠牲を伴う思いやりは、より大きな意味で愛と呼ぶに相応しいものなのだろう。
それが偽善と紙一重であったとしても。
これはじつは、ひとつの希望だ。
もしもあなたの周囲に“思いやり”のない人がいたとしても、“思いやり”が後天的な思考プログラムなのだとしたら、その誰かさんが“思いやり”のある人になる可能性はある、という意味で。
もしかしたら、“思いやり”がない人は、大きな損をしているのかもしれない。これまで試したことのない思考のプロセスを経れば、よりハイレベルな満足を実感できるかもしれない。
誰にも愛されずに生きていきたいと心から思うのなら、それは自由だ。でも、自分の現状に多少なりとも迷いや、悔いがあるのなら、考えかたを変えてみることが、ひとつのブレイクスルーになりうる。
もっといい人間になるために必要なことなんて、じつはそんなに難しいことではないのだろう。