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2013/04/29

病院実習をしていてしばしば、「どうしてこの人が病気にならなくてはいけなかったのだろう」と疑問に思う。
そのあたりを突き詰めて考えていくとき、世の患者様のなかには、(誤解を怖れずに言えば)“なるべくして病気になった人”と、“そうでない人”の2種類がいることに気がつくのだ。

もちろんそのふたつの境界線は限りなく微妙であり、どんな結果にも原因は必ず存在するわけであるが、たとえばタバコを一日に何箱も吸い続ければ呼吸器系疾患に罹るのは医学的にも折り紙付きだし、刺青やタトゥーを入れればB型肝炎ウイルス感染のリスクがあるし、救急医療では自殺企図が次々に運ばれてくる。
これらは原因と結果が非常にわかりやすい、なるべくしてなった患者であると言える。

一方、生来健康だった父親が突然の胸痛発作で帰らぬ人になることもあるし、幸福な家庭を築き平穏に日々を生きていた母親が癌を告知されることもあるし、ボール遊びに夢中になった子どもが道路に飛び出しトラックにはねとばされることだってある。
これらの場合は、誰が責任を負うでもなく病気になったり、運が悪ければ死ぬ。

やりきれないことが多ければ多いほど、そのやりきれなさを理由に宗教みたいなものが生まれるのだろう。身に降りかかる不幸のすべてが試練であり、神はわれわれが乗り越えられる試練しかお与えにならないのだとすれば、医師とはそのような不幸に際して、患者がその試練を乗り越えられるよう、お手伝いをする仕事、ということになる。
理想とはかくも抽象的で要領を得ず、やりきれない現実においてなんとかやっていく上では少しも役に立たない。

医学部を志望する受験生だった頃も、基礎医学ばかりの授業に倦んでいた頃も、ようやく病院実習がはじまった頃も、想像もできなかったくらい残念な現実が医療現場には多々あって、ちょっと元気でないな、と感じることも多い。
どんな仕事でもそうであるように、理不尽なこともきついことも面倒なこともたくさんある。
医師として生きて行くということは、僕がかつて漠然と考えていたより、全然簡単なことではないみたいだ。

だとすれば、僕にとっての理想の医師とは、それでも日々をなんとかやっている、現場に立ち続けている医師の姿ということになる。
雨ニモマケズ風ニモマケズ、医療を支える先人たちはなんだかんだやはり偉大である。

自殺未遂の常習者であろうが、悲運の事故の犠牲者であろうが、目の前に患者がいれば等しくその命を救うべく全力を尽くす。
当然のようでいてひとたび悩みはじめればキリのないこの矛盾から目を逸らすことがないように、医師になる前に僕が考えていたことをここに書き留めておくことにする。

2013/04/29 07:30 | kuchiki | No Comments