« | Home | »

2013/04/28

いつだって作家は作品に気持ちを乗せ、想いを託す.
でもそのことがそのまま観る側へ伝わるとは限らない..

ましてそれが人と人の想いのことならば、なおのこと.

期待通りに、意図通りに…

そこに拘り過ぎて作品を底の浅いものにするよりも
観た人へそれぞれが判断して、伝わるものがあるのなら
ただそれだけ、そのことだけに自分や作品を委ねていたい…


個展「自己嫌悪病棟 case1夜来るもの」2001 より.

先日、ヒッチコック作品では「ハリーの災難」とともに
自分的にベスト作品だと思っている「めまい」を再鑑賞しました.

この作品は非常にヒッチコックの個人的な妄執が働いていて、
本来構想していた女優の代役として器用されたキム・ノヴァクの持つ
ヒッチコックの思い描く女性像とは正反対を行く魅力とのぶつかり合いと
ノヴァク曰く「演じることを強要される」というヒッチコックの
病的側面さえ露わになった脚本演出と相まって、「めまい」そのもの…
どうにも不安定な作品になっています.

ヒッチコックの夢想した「清楚で健全な女性」と
キム・ノヴァクの持つ「魅惑的」なものは、どちらも
女性としての魅力であることは違いないのに
撮る側と撮られる側との関係の相違がそのまま作品にも見え隠れして
結果的により以上の作品に仕上がっているのはすごく珍しいと思うし
それは「めまい」が映画だからこそ伝わる表現だとも思います.

こんなカタチで作家側の「伝えたかった」ことと
観る側へ「伝わった」ことの差異が作品を創った作家の
思惑を越えて行く作品になることは、それだけその作品が
深いものだからこそだと言えますが、それだけではないような気がします.

「伝えたいこと」というのは作家側からしてみれば
表現したいものがあって創るわけで、そこに何らかの意味とか意義を
持たせたいと思うのは自然なことです.

「こう思ってもらえるように創ったんだから、
同じように感じてもらいたい」「共感」してくれる人の数が多ければ多いほど
嬉しい…より多くの人に共感してもらえるようなそんな作品を残したい.

なるほど字面だけを視てみればなんだか良さそうな作品に
読み取れるし、みんながそう言ってるんだから名作に違いない.

・・・でも、それだけ?感じることや思うことが作家の意図した通りで
感じたことも皆と同じ…というのはせっかく会場や劇場まで作品を観に足を運んだり
「観たい」っていう意識や気持ちがあるのだから、もっといろんなことを
感じられるのに…もったいないような気がします.

サスペンスの巨匠たるヒッチコックが「めまい」公開時までずっと
ヒロインに対して不満足故の無理な演出の押し付けで
観客の評価も今よりずっと低かったし何の「共感」も呼ばなかった.
何よりヒッチコック自身、そのことに深く傷つきずっと落胆していたといいます.

けれどもそんな不調和が産み出した特異な雰囲気を得て
「めまい」は過去50年間、批評家が選ぶ世界の名作TOPに君臨していた
「市民ケーン」を抜くような作品となりました.

それはヒッチコックが意図したものではなかったかもしれないし
人間としてはオモテには出したくない性癖の部分であったかもしれない…

「演じることを強要」してまで創った作品は監督自身の思い描く通りのカタチでは
なかった…でも、「めまい」はノヴァクでなければならなかった…
またそうであったからこそ作用し伝わった何かがあるのは間違っていないと思います.

その時点での作家の伝えたいこと..それを的確に受け止めることは
大切なことかもしれないけれど、でもそれだけでは終わらせない
終わりたくない感受性が人には備わっていることも
きっと忘れてはいけないことだと思います.

僕が今ここに2001年の個展「自己嫌悪病棟」の1カットを
ネガからではなくてプリントを複写したものから掲載するのも
もう二度とこのプリントのトーンは出せないと思うから.

伝えたいことと、伝わったこと
それぞれの相違の中で作品は生きて行く

「〜風に」「〜系で」便利な言葉だと思います…
だけどそれを自分で、かつ安全地帯で唱えているうちは、
自分が何者なのかなんて見えるはずはない.

いつだって「知る」ことにはリスクが伴うもの
自分が何者であるかを知ってしまうことより
自分が何者でも無いことを知ることの方が遥かに怖ろしいのだから…

 

更新…どうにか間に合いましたね
今回は言葉が産まれず相当苦戦をしました.

「伝えたいことと伝わったこと」

このことについてはまた章を改めて
もう少し整理してから書きたいと思っています.

2013/04/28 11:41 | hideki | No Comments