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シンガポールからの帰りの飛行機の中でこれを書いています。
今回の旅は、シンガポール、マレーシア(日帰り)、インドネシア(バリ島で休日)と3カ国周りました。
じつはこれらの国すべて、私にはとても縁があるのです。というのも昔、この国々で喋られている言葉(マレー・インドネシア語)を大学の「第一外国語」として勉強していたのです。
履修の際、選択肢が6つありました。
- 英語
- ドイツ語
- フランス語
- 中国語
- 韓国語
- マレー・インドネシア語
上位3つのヨーロッパ系の語学はいわずとも人気があるし、当時(1994〜5年)はビジネス的に中国熱や韓国熱が高まっていた時代。
マレー・インドネシア語のクラスには、変わった人か、ヒッピーみたいな学生しかいませんでした。私も当然その「変人」の仲間ですけどね(^^) 履修人口は1000人中なんと30人!
今だったら状況は違うでしょう。むしろビジネスセンスのある学生こそ積極的にマレー・インドネシア語を履修するのではないかしら? それにマレーシアは、日本人の富裕層や年金生活者に人気の海外移住先とか。
まず当時の日本の常識としては、「マレーシアってどこだっけ?」 みたいな時代でした。バリ島でさえ、観光地としてもまだ知られていない時代でしたしね。
なぜそのような言語を選択したかというと・・・当時私はアメリカ留学から帰ってきて1年も経ってなかったので、白人系の言語や文化はうんざりしていたんです。そんな中、マレー・インドネシア語のPR週間に、先輩達が手作りのマレー菓子を配っていました。そのココナッツの味の美味しかったこと・・・。初めて食べた味で、感激しました。(とにかくナッツ好きな私。)
つまり胃袋で惚れ込んじゃったわけですね〜 (^^;)
そして、先輩達によるマレー舞踊のパフォーマンスにも心が動きました。ガムランの心地良い音の効果もあり、そのエキゾチズムにハマってしまったんです。
うちの学部は外国語学部でもないのに、1年半の間、毎朝3時間、語学の授業でした。しかも必修。それだけ外国語を重視している学部だったのであります。楽ではありませんでした。(今ではさすがにこの制度は見直され、廃止されているとのこと)
フランス語などであればお洒落なイメージで、なんとかモチベーションをキープできるかもしれませんし、中国語であればビジネス的に価値があるから投資と思って我慢できる。しかし何しろ、あまり馴染みのない国ですし、当然行った事もないし、将来役に立つとも思えない言語。そのため脱落者も多くいました(^^;)
でもチャーミングで熱心な先生(マレー人)と、アットホームなクラスメートのおかげで、なんとか1年半がんばれました。おかげで当時はけっこうしゃべれるようになったんです。新聞も読めたし。
で、1995年、がんばったじぶんへのご褒美にと、先生の村(カンポン)にホームステイ(短期留学)しました。そのときに初めて、シンガポール経由でマレーシアに入ったのです。そういえば親にも「マレーシアってどこの国?」と聞かれましたっけ・・・。
アメリカ以外の外国は初めてでした。しかも初めてのアジア、発展途上国、第三世界、熱帯の国。30人ほどのクラスメートと一緒にシンガポールからバスで、暗いハイウェイを移動した光景、ぬめっと肌にまつわる空気は、いまでも強烈に覚えています。
深夜着だったので、最初の宿は先生がアレンジしたどこかの学生寮。カンティン(食堂)で出されたメニューも超エギゾチックで、強烈に覚えています。塩漬け卵とか、めちゃめちゃ辛いカレーとか、腐ったようなニオイのする豆腐とか、カンクンとか。全てが初めてのフレーバー。
翌朝、バトゥ・パハットの郊外の村に着きました。先生の出身の村です。一家庭に1人〜2人、ホームステイしました。この村での原体験はあまりに長くなるので、割愛。
それ以来もシンガポールには縁があるのです。マレーシアでダイビングを始めたのもあり、大学が休みに入るたびにこのエリアの海を求めて旅しました。もちろん、シンガポール経由で。
その後2001年、山口市の文化振興課の研究職についたとき、このエリアのアート・シーンのリサーチに出かけたことがあります。そのときにはもうシンガポールのタクシー・システムやメトロ・システムなどを見ると、その計画的なデザイン性に「日本より先を行っている感」がありました。
その後はヨーロッパ在住の身となり、節約のためにいわゆる「南回り」という修行のような空路を取り、シンガポール経由で日本に帰国したりして、あいかわらずシンガポールに寄っています。
そして2002〜2004年にはインドネシアのバンドゥンで大掛かりな作品を作っていたので、何度も現地に足を運び、それもシンガポール経由でした。
2010年にはシンガポール美術館での展示に呼ばれ、仕事でまた呼ばれるように来始めたのはこの頃から。
そんなこんなで、シンガポールには20回近く来ているのではないでしょうか。(そのわりには観光をしたことがないので、あいかわらず土地勘がない。)
さて、あの頃はマレー・インドネシア語が喋れて得することは決してないだろうと思いながら必死に勉強していましたが・・・。実際のところ、どうでしょう。
この地域の人々も英語を学んでしまい、どうしても必要とされる場面が減って来てしまったので、やっぱりいまだに役に立つ訳ではありません。
それでもクリーニングのおばちゃんや住み込みのお手伝いさんにマレー語で話しかけると、太陽のような笑顔がこぼれます。「あらー! あなたマレー語しゃべれるのー?!」と。
マレーシアとインドネシアの人たちはとにかく人なつこい。みんなナチュラルな笑顔。たとえば東京とか、オランダでは決して見られないような。こんな笑顔が見れるんだったら、やっぱりこの言語を学んで「良かった」と思いますね。それに、そういう労働階級の人たちを通さないと見えない文化もあるんです。
ちなみに、英語が通じない田舎などに行くと言葉はサバイバルには便利です。バリ島での値引き交渉にもちょっと便利かな? この前もマレーシアのジョホールバルに日帰りで行った時、あまりに全てが20年前から変わってしまっていたので(あたりまえか)まったく見知らぬバスターミナルに着いてしまった時。しかも現金を持っていない。
なんとかマレー語を駆使していろいろ聞いて回り、ATMを見つけ、ローカルバスも見つけ、目的のバスターミナルまで行けたではないですか! しかもバスの運転手さんが「おまえ運賃払ってないだろう!」と文句いってきても、「ちゃんと払ったよ!」と言い返す。(←たかが20円くらいの運賃なのだ)
昔、かなりサバイバルなバックパッカー旅行をしていたときの体力、肝力、語学力がまだ私にもあったらしい・・・(^^)。
私がいま使えるのは、日本語、英語、オランダ語、そしてマレー・インドネシア語。最後のはもう怪しいとしても、普通の日本人にしては多い方です。
「才能があるんだね」と言われますが、いえ違います! 苦労しないで習得できたのは、日本語だけです。他は、完全に、「地道な努力」です。
なぜでしょうね。きっと、まったく文化も背景も言葉も考え方も違う人への興味なのだと思います。そういう人たちに触れる事によって、自分の考え方を見つめ直す機会を得て、結果として人としての器が大きくなる。それが楽しいのだと思います。
次はどの言葉にしようかな?