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ここに二冊のフォトブックがあります。
一冊は遠方から異郷の地へ来られた被写体の方、一夜のほんの数時間で撮られ
構成された一冊です。そしてもう一冊はこの数年撮らせていただいている
被写体さんの、数年に渡り撮影された作品で構成されています。
距離、時間的なものも対照的なこの2冊には実は同じものがありますそれは…
「声」が聞こえること。
今の世の中ありとあらゆる方向から否応なく
たくさんのものが眼に耳に、ココロに入ってきます。
それは玉石混淆なもの..嘘もあれば真実もある…
それぞれが自分に合うものをセレクトしていけば良いものだし、
その選択肢や情報量が多ければ多いほど
なんて豊かで良い時代になったのだろうと感じられ…
果たしてそうなのだろうか..溢れ飛び交う情報を鵜呑みに
眼に見える、耳に聞こえるものや
メディアから与えられたものだけで判断して
それを感性豊かだと思ってしまうのはそれは逆に
感じることの幅を狭めることに繋がるのではないか..
そう感じたりもしています。
僕の作品に登場してもらえた被写体の方々は
そのほとんどは普通の学生さんであったり
日々会社で働く社会人であったり
特別、人目を引いて目立つような人でもなく
普段の日常の中、交差点ですれ違っていても不思議は無い
撮影という機会がなければまず交錯するようなことはなかった
そんなごく普通の人たち。ごく当たり前に流行りのものに興味を持ち、
「泣かせようとするもの」に泣き「笑わせようとするもの」に笑う。。。
そんなごく普通の人たちが僕のカメラの前に立ってもらえることの意味
一般人としての外面は剥がれ、微笑みは涙に変わりながら、
抱えている哀しみ苦しみ切なさ痛みを発露してカタチになっていく或いは壊れていく…
そこにはついさっきまでの初対面での「ごく普通の」という言葉では計れない
一つの物語を抱えて懸命に生きている他の誰でもない、
その人が持つ一人のカタチとして立ち現れます。
僕の撮影では指示や作為的なもの、コンセプトも明らかにはしません。
まず被写体となる人のこれまで描いてきたもの、
生き方感じ方合わせてその人だけが持つものを見つめることから始めます。
それがたとえ嘘でも真実でも撮る側に立つ僕としてはそれほど
気に留めることはありません。大切なのは別のところにあるから。
そこにはただ自分自身が感じたことが感じたままの姿で降りかかることに
慌て戸惑いながらもそれをどうにかしたいとする人間本来の姿があるのみです。
殊更それこそが人間らしいとかリアルであるとか強調するつもりは僕にはなくて
計算尽くでそうなったのではないこと、それは今作られたものでもなく
元からその人の中にあったもの…「声」だと思っています。
決して楽な撮影ではないと思うし今の時代もっと綺麗にピュアにと
撮れるカメラマンたくさんいると思います。
むしろ苦しいと解っている部分を突かれ、撮られるということは
とっても勇気が要ることで脆く危ういものです。
それでも僕と作品創りしてもらえるということ
またずっと残していけるような作品となってカタチにさせてもらえていること
それは替えのきかない、「その人でなければこの作品は無かった」と言える、
大きなものでもあります。これはプロモデル、被写体さん、撮影会…
お金を出せばとか..また口先だけでとか…
誰とでも撮れるようなものではないと思っています。
冒頭のようにその時だけの行きずりのような撮影で終わることもあれば
長い時間をかけつつ撮り続けながら、生きること感じることに
向き合うように作品創りに関わってもらえる..そんなこともあります。
けどそれでどちらが良いものが産まれるかと決まってはいなくて
ただ一日だけ、数時間の一瞬の擦過にとてつもない一枚が
撮れているものもあれば、
時間を経たからこそ見えて来たもの写ったものもあります。
そうまでして痛みや切なさ苦しさを経てカタチになった作品たちだからこそ
観た人のココロに伝わるものがあると思うし、そこまで行けて初めて
誰かを震わせるようなものになると思っています。
またそうまでしなければ誰かを震わせることなどできないと思います。
そこで感じられるのは、感動とか感性とかよくある言い方で
現されるものではなくて..もっと深いところにあるものに響くようなもの…
ふとアクセスしたブログ..訪れた写真展..手にしたフォトブック
それはただ一日の出来事で構成されているものもあれば
数年をかけて練られ構成された作品たちもある。
撮る撮られた、観た見せられた…理由など特にない、ただなんとなく立ち寄ってみた…
大切なのはそこで発せられた「声」が聞こえるか、聞こえる自分でいられるか。。。
それを感じたとききっと、ただ雑踏ですれ違うだけの人たちの中から
ほんの少しだけ違う場所へ踏み出せたと思えるはずです。
そこでは「その他大勢」だと思っていたものたちから
普段の日常の中では聞こえて来なかった小さな声たちが聞こえてきます。
その声はとてもちいさく、掠れていて遠くへは聞こえないし
みんなに聞こえるものでもない…
けれどその声の主が発しているものに気付いたとき
それは心を打ち響き続けるものになる…
むしろ耳を塞いで聞こえないフリをしていた方がずっと楽だったと
思うこともあるかもしれない。みんなそうしているのだから。。。
けれどそんな声にこそ僕の視たい、届きたいものが在ると思っています。
だからいつもその微かな声の聞こえる場所に居たいし
聞こえる眼と耳を持っていたい。
世の中が虚実・玉石混淆溢れていればいるほど
済まし顔で感性豊かで在ろうとせず、身体ごと気持ちごと
ぶつかりながら聞こえたもの感じられたものを
選択していきたいと思っています。
何処からか聞こえる小さな..でも決意の込められた声に
応えられるものを創っていきたい。
確かにあのとき心震わせられた「声」がある
そうさせたのはそこに写っていた「声」が聞こえたから…
そう思うとき、物語は個々に完結するのではなくて
綿々と誰かから誰かへと紡がれていくもので
作家はその紡ぎ手なのかもしれないと思うのです。