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2012/10/14
キャンパスを歩いていたときのこと。医療用のニットキャップを被った中年の女性が小さな女の子を抱きかかえ、少し大きな女の子がふたりをのせた車椅子をうしろから押していた。こどもはたのしそうに、おとなはさみしそうに笑っていた。
家族だったのだろうか。
抗がん剤治療をしているのかもしれない。
どうだろう。
帰りに寄ったスーパーのレジでは精算中、研修中らしきおばさんに、お釣りが出てこないときはどうすればよいのでしょうかと尋ねられました。
わからない、僕にはわからないことが多すぎる。
診察では共感を示すことがたいせつだと教わるが、
“それはたいへんでしたね”
という定型文で伝わる程度の共感なら示さないほうがましなのではないかと思ったりする。
でも、学生に許される裁量はそんなに大きくないし、そもそもオリジナリティなんて求められていないのだ。
だから僕は何度も模範的回答を繰り返す。
“それはたいへんでしたね”
ほんとうの共感とはいったいどんなものなのだろうか。
共感は想像の延長線上にあるようでいて、ほんとうは似て非なるものなのかもしれない。
車椅子の家族のストーリーを僕が勝手に想像するのは共感とはちがうものだ。
誰も傷ついていないから。
あるいは、自分だけを傷つけるようなものだから。
共感するふりをしたり、
想像のなかで共感をこねくりまわしてみたりして、
明日も僕は患者さんと向き合うのだろう。
共感とはなにかを考えることが、いちばん共感にちかいなにかなのではないかと思ったりする。
2012/10/14 09:00 | kuchiki | No Comments