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今日の夜眠りに就いて、明日の朝いつもとおなじように目が覚める保証なんてない。
あると思っているのなら、それは傲慢だ。
これまでなにひとつ大きい病気をしたことがないとか、まだそれほど深刻な病気になるような年齢ではないとか、その傲慢がなにに拠っているにせよ。
驚くほど簡単に人は死ぬ。
午前3時、ベッドのうえで冷や汗をかき、胸の痛みに苦しみながら。こんなことになるなんて、信じられないと思いながら、信じられないままに、死ぬ。
ほんの少し覚悟があれば、なにかひとつくらいのことばを、誰かにのこせるのかもしれないのに。
今回は、スポーツで鍛えたからだが自慢の、自分の健康をさして疑ったことのない、20代の男性のはなしだ。
このコラムをかくにあたっては、個人情報の扱いにかなり留意している。だが、今回はその必要もない。
なぜなら、これは他でもない僕のはなしだから。
今年の夏、生まれてはじめて大きな病気をした。誰もが知っているような、命に関わる病気だ。幸いにして僕はまだ生きているし、いまは、これまでとなにも変わらない毎日を送っている。
いや、当初はぜんぜんちがう、軽い病気を疑っていたのだ。結果として、受診が遅れ、僕は自分の医学部の附属病院に、緊急入院することになる。
でも、あの日、目を閉じたとき、翌朝いつものように一日がはじまることを疑いなどしなかった。むしろ、次の日のことを考えた記憶もない。これまでと同じように、これからも僕の人生がつづいていくことは、それくらい当たり前のことだと思っていた。
死んでしまうとはどういうことか、実感をもって考えたことがあるだろうか。
僕の病気はわりと深刻なものだったので、検査には同意書が必要だった。そして、同意書には家族や立会人のサインが必要だった。試験に出ないので、サインのことなど知らなかった。僕は実家と折り合いが悪く、また、平日の午前5時に病院に呼び出すべき誰かも思いつかない。
ぼんやりとしたまま“死んでも構わないですから”と繰り返し伝え、結局無理を通した。医師らもさぞ困惑したことだろう。
でも、自分のサインだけがぽつんとかかれた余白の多い同意書を目にしたとき、僕ははじめて自分が死んでいたかもしれないこと、そして、確率は低いとしても、これから死んでしまうかもしれないことを実感したのだ。
死んでしまうかもしれないと、ほんとうに実感したとき、あたまに浮かんだのはひどくくだらないことだ。
その少しまえ、僕はとても素敵な女の子と出会った。
大学も、住んでいるところも違うし、共通の友人がいるわけでもない。
何より相手の気持ちもわからなかったけれど、ちょっとした近況報告は途切れたり、またつながったりを繰り返しながら続いた。
もし僕が死んでいたら、このやりとりは途切れたまま、二度とつながることはない。共通の友人もいないから、多分僕が死んだことさえ伝わらない。
突然終わってしまったやりとりのことは、おそらく世界にありふれたことのひとつとして、やがては彼女に忘れられてしまうだろう。
僕にとって、死んでしまうということは、気長に待っているはずだった彼女からのメッセージを、もう二度と読むことができないということだ。
他のどんなことよりも、僕にとってはそれがいちばん実感を伴って、死ぬということが身に染みた。
くだらないと思われることだろう。僕もそう思う。
でも、自分の死を覚悟したとき、感じる後悔なんてきっとそんなものだ。
くだらないからこそいとおしく、あきらめたくないと感じるのだろう。
今日の夜眠りに就いて、明日の朝いつもとおなじように目が覚める保証なんてない。
僕にその覚悟ができたのは、とても幸運なことだ。
たいていは、そんな覚悟をする暇もないまま、命を落とすことになるのだから。
別に、常日頃から死を意識しようとしている訳ではないし、そんなのはひどく煩わしい。
後悔のない毎日を送ることができればいいとは思うが、あいかわらずの日々だし、たとえば昨日は数人で飲んで潰れた。
今朝自宅のトイレで目が覚めなければ、死後の世界でひどく後悔しただろうと思う。
それでも僕は知っている。自分が明日か、あるいは50年後に死んでしまうということを。
もし、最後の瞬間に少しだけ猶予があったなら、たいせつなひとに、ありがとうと伝えたい。あるいはちょっとした好意を。
あるいは、このコラムを以て、僕の感謝の気持ちに替えさせてほしいと思う。