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皆さん、おはようございます。
いきなり坊主が何を言いだすのか、と思われるかもしれませんが、
これは、私が仏教の坊主なればこそ言うのです。
ここで言う「神」とは、
キリスト教やイスラム教などの一神教でいうところの、
いわゆる「神様」のことを指します。
つまるところ、何を信じていないのか、というと、
・我々人間の誰とも違う謎の生命体(意識体)Xが超越的に存在していること。
・この生命体Xが天地宇宙を創造したこと。
・この生命体Xが人間など、生物を創造したこと。
・生命体Xは創造主なるがゆえに、生殺与奪権を無条件に掌握していること。
こんな存在は、宇宙の内外、どこを探しても、
その探索が物理的なものであれ、非物理的なものであれ、
見つかることはないし、そもそも存在したこともすることもない、
そのように考えています。
じゃあ、いわゆるところのホトケサマ、
つまり、如来、菩薩、明王、天部の類についてはどう考えているのか、
といえば、いるかもしれない、とは思っていると。
ただ、人間以前に存在したことはないと考えているわけです。
世界は心が作り出す、という側面を仏教が説く以上、
ホトケサマなるものの存在は、論理上、可能性を捨てられないのです。
いかなる想念も、それが実体化して独立的に機能することはあり得ない、
ということが実証されないことには、
ホトケサマの存在の可能性は残ってしまうわけです。
想念が半ば実体化したものを「想念形態」というそうですが、
そういう形で、如来も菩薩も明王も、
極めて具体的な形で存在しているかもしれない、とは思うのです。
ただ、これは人間が生まれ、仏教的概念と色々な思想、信仰が
入り乱れた結果、色んな架空のキャラクターが想像され、
それを多くの人が信じた結果、そんな想いの「想念形態」として
架空のキャラクターが次第に形を帯び、
実体のようになってしまって、一応存在はしている、
という可能性がある、というだけの話です。
その想念形態は人間が作り出したものであって、
人間以前から存在していたものではない、と思います。
しかも、これらは「想念形態」以上の意味で存在したとしても、
人間に対する生殺与奪権はやはり持ちません。
あくまでも、人間より上位の存在とはみなさないのです。