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地球の舳先から vol.238
東北/被災地 定点 vol.5(全7回)
森川駿平さん(本名:桑原吉成さん)は、競馬ライターとして
東北の地方競馬を中心に活躍しながら、気仙沼市内の病院で働いている。
病院ではまさに「なんでも屋」。医療事務もドライバーも兼務する。
震災の日、津波警報を受けて、男性ヘルパーと一緒に送迎車で患者さんを避難させた。
大きな揺れに、南気仙沼の街は避難の車で大渋滞となった。
携帯電話は通じにくくなっていたが、ラジオから「東京が大津波」という情報を得た。
「でも震源地はこのあたり。それで東京が大津波だというなら、ここはどうなってしまうのかと…」
カーナビをワンセグに切り替えた15時20分、
大船渡の大津波第一波が小さな画面に映し出された。
ただごとではない――しかし、自身の身の安全より「何をすべきか」が先に立った。
なんとか病院までたどり着くと、病院職員は総出でカルテを上階へ移動させていた。
津波は3~6mと予想報道されており、1階は危ないと判断した。
カルテが無ければ薬も出せない。致命的な事態になる患者さんも出てくる。
森川さんは、高齢の女性患者が車に忘れ物をしたというので、一旦車に戻った。
その時、黒い波が押し寄せてくるのが見えた。
これはとんでもない津波だと判断し、非常口から引き返すと、1階にいた人々を避難させた。
その間にも、浸水した水位はどんどん上がってくる。
水位と戦うようにして、患者さんをおぶって階段を上がった。
浸水した地域に取り残され、救助のヘリコプターが来たのは、翌日の夕方のことだった。
幸い、3階以上が職員住宅になっており、毛布など防寒に耐える物資があったこと、
ホワイトデー前で院長先生の奥さんが大量のチョコレートを用意してくれていたことが救いだった。
助け出されたその日、院長は「やるぞ」と宣言。
森川さんも、町を歩けば患者さんと会い、「薬、出してよ」の言葉に奮起した。
元はミシン屋だった小さな空き店舗を借り、まさに野戦病院のような体で、病院はすぐに再開した。
震災後、県外の人との交流も非常に多くなったという。
森川さんもガイドとして参加する「気仙沼気楽会」という、気仙沼の若者が
「気仙沼のいま」を案内する観光ツアーには、毎回全国・全世界から人々が訪れる。
自分たちにとっては話題にするまでもなく普通のことも、外の人からは興味深い未知なる世界。
様々な気づきを与えられ、森川さん自身も気仙沼を再発見するきっかけになっているという。
「この街には、漁師町のトリビアがたくさんあるんですよ。」
目黒さんま祭りの舞台裏や、港町のスナックの開眼やるかたない雑学は
ぜひとも気仙沼で、お酒を片手に地元の人から聞いてほしいと思う。
競馬ライターとしても活躍する森川さんだが、
競馬を通じてをも、被災地と県外とのつながりを肌で感じている。
この日、森川さんが案内してくれた、復興屋台・気仙沼横丁の「男子厨房 海の家」には
福来旗(ふらいき)と呼ばれる、大漁と航海の安全を願う縁起物の旗が飾ってあった。
これは、去年の秋から、東京の大井競馬場にも飾ってあるものだ。
「馬から、人を元気にしたい」というコンセプトを銘打った大井競馬場には、
復興支援の思いを込めて、気仙沼のボランティアから贈られた250枚もの福来旗が飾られた。
森川さんのブログからも、当時の様子が確認できる。
地元気仙沼と、全国各地を行き来しながら、日々感じてきたつながりの数々。
森川さんの二束のわらじは、これからも続いていく。