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そんな坊さんがいるって本当でしょうか?
本領発揮の場の一つであるはずなんですが。
皆さん、おはようございます。
布教の授業を担当しておられた先生は、
葬式やお通夜で、他にする話がないのであれば、
せめて授けた戒名の説明くらいすべき、
と力説されてました。
同感です。
というか、テメエでつけた戒名くらい、
テメエで説明せんでどうするのか、と思います。
そのくらいの説明は、下手な営業マンでもします。
葬式なんて、どうせご遺族は悲しみの真っ最中。
まともな説教など喰らわせて感動を呼ぶなんて、
法話をするのせんのというレベルの坊さんに出来る芸当じゃない。
じゃあ、そこは諦めるとしても、
戒名の説明は最低限の「商品説明」にはなるはずです。
それすらしないのは、職務怠慢の極みです。
では、通夜、葬式でない法事ならばどうか・・。
自宅法要ってことも多いでしょう。
それならば仏壇のお祀りの仕方のワンポイントくらい。
あるいは今回の法要の意義とか。
よほど勉強の出来た檀家さんのところへ、
よほど不勉強な坊さんが行ったのでなければ、
何か一つや二つは法話のネタはあるはずです。
法話も立派な「商品説明」のはずですね。
ある坊さんがおっしゃってました。
この方は真宗大谷派の坊さんでしたけども。
「真宗から法話をとったら何も残らない。」
何も残らないは謙遜がすぎるかと思いますが、
しかし、教義的に考えれば、何も残らないは大袈裟としても、
8割から9割残らないであろうことは確かです。
浄土系なんて、如何に容易な道を提示して、
信じる者に安心感を得てもらえるか、というのが命綱です。
その人たちから法話をとってしまえば、
宗門の存在意義なんてなくなるも同然というものです。
もちろん、布教の方法というものは、
法話だけに限ったものではありません。
詠歌布教なんてのもあります。
しかし、そうした形式のある布教だけではありません。
坊さんの生き様そのものが、
それを見る信者さん、檀家さんには布教なのです。
決して金銭によってではなく、
教えとその実践によって気楽に生きていられる、
そのことを実証してこそ坊さんの存在意義があるというものです。
仏道修行とは、本来楽しいものであるべきです。
そこのお坊さん方・・・そこんとこ、おわかりですよね?