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地球の舳先から vol.237
東北/被災地 定点 vol.4(全7回)
千葉淳也さんは、豆腐屋、マサキ食品の5代目当主。
海上自衛隊を経て、8年前に跡取りとして帰ってきた。
店は海から100メートルもない海抜ゼロ地帯。
震災の日はちょうど、いつもの通り50~60軒のお得意さんのところへの配達を終え、
後片付けをしているところだった。
避難所へ行くものの、ごった返しており電気もないその場所に見切りをつけ、
叔母の家で3週間を過ごした。
看護師の妻は、病院での対応に追われていた。
震災の直後は、明日をどう生きるかだけで精一杯だった。
「生きるために食べる」ことが主となっていた生活の中、久しぶりに食べた豆腐の美味しさに目を瞠ったという。
千葉さんは豆腐作りの再開を堅く決心した。
避難時に携帯電話だけを持って逃げたため、早いうちから安否確認も含め、業界の知人とやりとりをしていた。
「同じ同業の、気仙沼の豆腐屋が困っている」という情報は、業界内を駆け巡った。
東京には、気仙沼にはない「豆腐商工組合」という業界団体もあり、支援の手がどんどん繋がっていった。
「道具はこちらで探す。建物はそっちでなんとかして」
力強い後方支援に、千葉さんは仮設ではなく本設の店を建てることを決めた。
もともと持っていた荒地をならし、地目変更の手続きを行い、建設が始まった。
一筋縄でいかないことも多々あったが、豆腐ネットワークの熱い思いを一心に受け、
街でお客さんに会ったときにかけられる「待ってるよ」「いつからやるの」という声にも支えられた。
着工、7月末。11月11日、店を再オープンした。
店の奥行きは深く、一通りの仕事場が揃っている。
今は、定期顧客への配達のほか、豆腐ラッパとリヤカーで仮設住宅にも出向く。
その姿はまさに、我々が想像する「古き良きお豆腐屋さん」の姿そのものだ。
しかし店舗とは対照的に、千葉さんの住まいはまだ仮設住宅。
住居より店舗を優先したわけを聞くと、「収入がないとね」とも言うが、
「仮設の商店街に入ろうかとも思いましたが、期限付きだし、
思い切って自分の店を本設で作ろう、と。」
今をどうするかよりも、持続性と将来計画を見据える方向に、舵を切った。
もう一つ、千葉さんには、自分だけで店を再建したとしたら思いもしなかったであろう決意があった。
「横のつながりで店を再開できた。目を向けてもらったみなさんに、恩返しをしないと。」
千葉さん自身が招かれたこともあれば、東北まで出向いてくれた関東の豆腐屋仲間もいた。
人に会い、話をするたびに、新たな展開が見える。
「人のつながりでしか、商売は出来ないのだ、と気付きました。
これまでは、お客さんとの1対1の関係しか見えていなかったかもしれない。
でも、豆腐を作り、売るまでには、問屋さん、機械屋さん、原料屋さん…その他多くの
人たちがいて成り立っている。心強い、と思いました。」
千葉さんは、様々な人々の思いを背負って再建した豆腐に「気仙沼復興豆腐」と名付けた。
「気仙沼は被災したけれども、この地でもきちんとしたものが作れること、
商売ができるってことをアピールしないといけない。」
被災したから、万全のものづくりが出来なくても仕方ない――などと思われるわけにはいかない。
「復興支援だから」という理由が無くても、選ばれ、買ってもらえるものを
作ることこそが、真の復興となるのだろう。