« 『叩いて踊らNIGHT!!』&『うっかり☆ソン』LIVE!! | Home | 人生初の占い »
こーみえても、毎日アシカショーをやっている。ナメンナヨ。
とは言うものも、毎日寒くてショーをやるのは大変です。
最近では室内にショースタジアムと称する立派な建物があり、プールもあって快適・安心・品質保証の適温環境で座ってショーが見れる施設もあるけど、たいていの水族館ではショーは外でショーをやる。見るほうも大変だけど、やるほうはもっと大変なんだから。
寒さで手がマヒしてきて、アシカに向かって投げる輪投げの輪のコントロールができなくなる。またく予期せぬ方向に輪が飛んでいってしまい、アシカに (おい、それはいくら何でも取れん) という顔をされることもある。
そんな時はこう言うのだ。
「コラ!今よそ見したでしょ!ちゃんと集中して輪を見てなきゃダメでしょ!」
さて、我が水族館は結構昔からアシカショーをやっていて、ボクは4代目のアシカのお兄さんだ。現在7代目までいる。
1代目が引退した後、2代目との間にかなりのブランク期間があり、市の予算が付いて再びアシカ導入、獣舎新築が決まり、そのとき2代目のトレーナーとして名乗り出た、というか指名されたのが現副館長で、多くの人から定評のある今の当館のアシカショーの基礎を作り上げた人で、若い頃静岡の水族館へ単身研修行き、何度も噛み付かれながらショーを構成した。
ボクの中で謎なのが
「初代アシカのお兄さんはどんな人でどんなショーをやっていたのか?」
ということであった。資料室へいって半日かけて昔の資料を探しても、アシカに関するものは出てこなくて見つかったのは数枚の写真のみ。謎は深まるばかりである。
こーいうことは博物館に聞こう!と思って、近所の市立博物館のO学芸員さんに情報を頼むと、博物館の収蔵庫から大昔の水族館のパンフレットを探し出してくれて、見せてくれた。水族館の資料庫から見つかった写真とほぼ同じ。おじさんがショーをやっている。
気になり、ずっと情報を探し、追い求めると少しずつ歴史が見えてきて、
①写真のように、当時としてはかなり珍しくアシカが2頭編成でショーをやっていた。
②アシカショーではなく、「アシカの曲芸」と名乗ってやっていた。
③いいかげんだった。
という情報が得られた。
初代アシカのお兄さん、じゃなかった、アシカのおじさんはKさんで、おぉ、なんとウチから自転車で5分の同じ町内在住ではないか。さっそく当時の「アシカの曲芸」がどんなだったか電話をしてみた。息子さん(といっても、もはや息子もオヤジ)が電話に出た。
「あぁ、ウチのおじいさん?アシカをやってたみたいだねぇ。」
「今いらっしゃいますか?」
「となりのおるよ(いるよ)。」
「かわっていただけますか?」
「ムリだねぇ」
「どうしてですか」
「もぉおじいさん、ボケちゃって話ができんよ」
「…。」
本人から直接、当時の状況を聞くことはできなかった。
その後、唯一当時のショーを鮮明に覚えている!いう人物、前の館長に話を聞く機会があり、驚愕した。
①「曲芸」の開催時間は毎日特に決まっていなく、かわいいお姉さんが来ると、突発的に開始された。
②そのため、エサはあらかじめ用意されていなく凍ったエサのままショーがお姉さんの前で行われ、アシカは凍ったエサをもらいながらショー、じゃなかった曲芸をやった。そのため下痢をよくしていた。「おかしい、アシカが調子が悪い、下痢をする」と、いつもおじさんは悩んでいたそうだ。
③エサの魚やイカをストーブで頻繁に焼いて自分が食べていた。
④おじさんは元々、市役所から派遣されてきた普通の役所の人で、まったくもって本格的な飼育員ではなくて「なぜオレがアシカをやらなきゃいかんのだ!」といつも怒っていたらしい。
⑤ショープールは現在のように整備されていなくて、藻やコケが繁茂していた。当時、種目で「皿回し」をしていて、失敗してプールに皿を落とすと、アシカが自分で拾いに行く。皿を頭に乗せてステージに帰ってくる。プール内に繁茂した藻類がアシカの頭について、頭には皿が載っている。「カッパです」というと大いにウケた。
⑥ステージの壁には「アシカが種目を失敗してもあしからず」という看板が貼ってあった。
⑦洗濯用のゴム手袋を標準装備してショーをやっていた。
⑧よくお客さんをナンパしていた。
などの情報が得られた。
当時は大変だったんだなぁ。それに当時は今よりも自由な水族館だったんだなぁ。