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2012/01/28

さすがに、一時のブータンブームもだいぶ落ち着いてきた今日この頃。

国王の来日が、昨年の11月15日。
まもなく、2ヶ月半が過ぎようとしている。
「人の噂も七十五日」とはよく言うが、
ブームが鎮まるにはちょうど良い頃合い、といったところだろうか。

このブームの中で、特に感じたのは、
「おいおい、日本にこんなにブータン関係者居たのかよ」
ということ。

自分が研究をはじめた2年前を思い返してみると、
ブータン関係者を探し当てることすら困難だった。
それが、ここへきて、「自分もブータンに関わってました」という類が、
わんさか湧いて出てきている。

残念ながら、有象無象の連中が寄ってたかってきていたのもまた事実。
勿論、自分とて、たった2年の関わりなのだから、
そういった連中と大差無いと言えば大差無い。

ブータンについて、あることないこと広まったこのブームだが、
良くも悪くも、ブームの終焉と共に、人々の記憶からも消えていくのだろう。

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さて、そうはいっても、
今回、ブータンに触れたことで感じ入って、
これからブータンを訪れようという日本人は確実に増えていくだろう。

ブータンの魅力は、とても一言では説明できないが、
日本人が惹かれる理由の一つに、このコラムでも何度も触れている、
「GNH(Gross National Happiness)」という考え方があるように思う。

ただ、勘違いしてほしくないのは、
ブータンは確かに、幸せを目指している国、ではあるけれど、
巷で騒がれているような「幸せな国」かどうかは、大いに疑問符が付く、
ということ。

よく引用される、幸福な人の割合が97%、という数字が一人歩きしているが、
この数字には、統計のカラクリ、というヤツが隠されている。
(あまり滅多なことは書けないので、興味がある人はご自身で調べてみてほしい)

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最近、自分自身、幸福観について考える機会があったのだが、
その中で、「最大公約数的な幸福観」と「最小公倍数的な幸福観」という、
相対する概念を導入することで、日本とブータンの幸福観の違いが見えてこないか、
という発想が浮かんできた。

「最大公約数的な幸福観」とは、
誰もに共通の、最低限度の幸福(生活)を保証しよう、という考え方。
他者の幸福を侵害しない範囲において、競争によって限りある幸福を奪い合う。
「個人主義の幸福観」や「減点法の幸福観」、「演繹法的な幸福観」
と言い換えても良い。

一方、「最小公倍数的な幸福観」とは、
それぞれが役割を果たすことで、社会的幸福を追求しよう、という考え方。
個人の幸福は、社会の幸福が実現されることで、自然と実現される。
こちらは、「全体主義の幸福観」や「加点法の幸福観」、「帰納法的な幸福観」
と言い換えることができる。

単純に、前者が日本で、後者がブータン、と結論付けるつもりは無いが、
もう少し深堀りしてみると、ちょっと面白い論になりそうだ。

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幸福を目指す社会。
その一つのヒントが、そもそもの幸福の定義、すなわち幸福観を変えてしまうこと。
という考え方は間違っていないと思うのだが、アプローチの方法としては不適当だ。

幸福観を変える、というのは、
「あなたが変われば、世界は変わります」
と言っているのに等しいからだ。

つまり、どうしてもそのアプローチでは、
宗教勧誘じみた方法論に足を踏み入れてしまう。

日本では、兎角、新興宗教は嫌われる傾向にある。
それは、どうしても、あのオウム真理教の陰がチラつくからだろう。
この年末年始、世間を騒がせた平田容疑者逮捕の報は、
17年が経った今でも、あの事件が風化していないことを思い知らされた。

昔、友人に、こういう川柳を詠んだヤツが居た。
「信じるの 隣に者と 書き足せば 儲けとなりぬ オウムの野望」
…上手いこと言っている場合ではない。

信じる者は救われる、というのは、一方では真実だとは思う。
負の側面に目を瞑り、正しいと思えるモノだけを見続けていれば、
どす黒い感情の渦に左右されない穏やかな暮らしが保証される。

ただ、自分としては、そこへ逃げ込まずに、
幸福を追求し続けるブータンから、時にはヒントをもらいながら、
日本なりの「しあわせのかたち」を、もう少し、考えてみたい。

そんなとりとめも無いことを考えた、大寒の候。

2012/01/28 12:00 | fujiwara | No Comments