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皆さん、おはようございます。
長らくご無沙汰を致しました。
オペラ、モツレクと立て続いて、少しへばっていました。
mixiなどで日蓮正宗系の人と話をしていて、
言葉の定義で面喰ってしまうことがあります。
また、定義そのものよりも、
その場における定義のすり合わせが出来ず、
話がそこで停滞してしまって困ることもあります。
その一例が、タイトルに書きました「信仰」です。
前にも書きましたが、私は基本的に信仰をしません。
ここで言う信仰とは、あくまでも私の定義するところの信仰です。
一応、真言宗に身を置き、真言宗に伝わる修行の方法を使っていますが、
それは真言宗に対する信心が先にあってしていることではなく、
自分に適していると思われる方法が真言宗にある、
というだけの話です。
ただ、その方法を使いたいと思っても真言宗の僧侶でなければ、
使わせてもらえないから真言宗の僧侶をやっているわけです。
さて、その選択の結果、真言宗の僧侶をやっていることについて、
日蓮正宗系の人から見ると、これは「信仰」なんだそうです。
ただし、私の真意をきちんと理解した上で、
その動機と行動のことを自分たちの定義するところの「信仰」と呼ぶ、
というのではないようです。
つまりどういうことかというと、
彼らにとって何らかの宗教行為を行うことや、
ある宗教の一員として身を置くということは、
その宗教の説くところを最上、最勝のもので、
それこそが絶対唯一の真理であると信じたからこそ出来ること、
という思考パターンが定着してしまっているようなのです。
その結果私のしていることがどう見えるかというと、
私が真言僧侶であることで何がしたいか、というのは全く無視した状態で、
真言宗の教義が最上、最勝の真理であり、他は邪義である、
と確信したからこそ、真言僧侶をやっているのだ、
というのが前提に来てしまうようなのです。
その前提が成立していれば、確かにそれは「信仰」でしょう。
もちろん、私の定義するところの「信仰」とも大半は一致します。
そこで、「つまり私は真言宗を信仰していない」
と私は言いたいんですけれども、
僧侶までしているのだから真言宗を信仰しているはずだ、
なのに信仰はしていないと主張している、
いったいこいつの言ってることは何なのだ?ということになるわけです。
実際問題、真言宗の僧侶で、彼らの定義するところの
「信仰」を持って真言宗をやってる人はあまりいないと思います。
そのせいか、彼らはどうやら「真言坊主は嘘つきだ」
という見解を持っているようです。
確かに彼らの言う「信仰」なくして僧侶はあり得ないと言われれば、
最上とも思っていない道でプロを称しているのは欺瞞的に映るでしょうね。
このあたりの見解、定義の相違を、
日蓮正宗系の方々にはそろそろ理解していただきたいですね。
人は、絶対性にのみ魅かれて行動をするわけではありません。
そこに憧れてついていく人のことを、
カルト信者というのだ、ということはわかってほしいものです。