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ほとんど 違いに気が付かないくらいに
コマの曲芸は
同じ情景で 芸を演じる場合が多いですから
ここで 曲独楽師、コマの曲芸の
芸の違いについて
取り上げても
あまり 面白くないと思います…(^^;)でしょ…?
ですから
私の 自分勝手な話として
どんな風に
コマの芸が
こういう現在の様子になってきたのかを
少しずつ 求め探してみようかなと 思います
あくまで
個人的な 意見ですから
読んで怒っちゃ嫌ですよ
さて 現在の この冒頭のイラストで取り上げる
風車という芸
これは
大型化して 渦巻き柄を定着させたのは
三増 紋也師匠だと言っていいでしょう
要望に 古典的な約束事を破ってまで
応えてくださった 曲独楽の製作者の先生は
本当に 大変だったと思います
そもそも
曲芸用の コマ
曲独楽ですが
本来 あるべき姿として
常に 口上でも 昔からの伝承として
中国と朝鮮そしてインドや他の仏教伝来の各地域の由来を
ご利益を 授けられるように 作られた
そういう 寺社の布教や まじないごとの 言い伝えが元にあります
ですから
その色合いについても
5色が基本となっていて
「五臓六腑」というように
それは 身体の部位であるとか
方位や易といったものと
関係があったのです
この伝承は 木地玩具を作っている 工房の方なら
今でも 古典として
守られているので
ある程度 馴染みがあると思います
青 赤 黄 白 黒
こけし など 東北の玩具に多いお馴染みの色合いです
福島県の三春駒などは 私の父 源氏太郎が
おみやげとして
私に小さい頃 おもちゃとして 買ってきてくれた品で
思い出の中で とても色合いが気に入っていた
郷土玩具です
さて 現在まで伝わっている意匠が この5色の約束事によります
下の写真は福島県 三春町のサイトからです
写真をクリックすると 三春駒の由来解説があります
このように 三春駒の形が 定型化するのは 大正時代からだそうですが
日本の素朴な 特産品の
独特の 雰囲気は
やはり その土地の
権力者や 経済のにぎやかさが 後ろ盾とならない限り
今の世まで 残る事は ありえません
よりいっそう 定型化することで
土産物として 広く大量に長く生き残る事が出来
私達 芸の畑とは 似ているようで
似ていない 特徴を持ちます
私達芸人のように 限定されていることで 長く生きるのか
それとも 土産物のように 広く知らしめることで
生活の一部と化していくのか
その違いがあります
もともと 生きるために 我が家の先祖は 芸事を成していた様子ですから
上手にその両方を 行ったり来たりする術に
長けていて生き残ったのだと思います
人が生きていく事と 芸と その風土 そして 今残っている現状を
深く考えたいと思い
私は 東京の寄席 定席出演者では なくなったのであります
求めていくと 不思議と 出会いはあるもので
今居る 愛媛県の内子町では
深い山の中に お堂や 神社が建っていて
結婚して住み変わった頃は
なぜなのか ちっともわかりませんでしたが
どうやら 愛媛県の建築士学会と言う所でも
その歴史を正式に調査していたようで
最近そういう謎が解ける本にも 出会いました
以下 だいたい読み進んでの 要約です
愛媛県 高知県の 藩主が
山深い土地の人を まとめていく為なのか
災害や 供養の意味で その地域の 祈りの場所を作る必要が多くあり
また それに応える技を持つ 技術者が なかなかいなかったことから
他所の宮大工や彫刻師を求め
それに応じて
今の山口県 周防大島から
多くの大工や彫刻師が 移住あるいは 移動しつつ
腕前の程度により
各地のお堂や 寺社そして 庄屋邸宅の建築を
任されていったという事が
わかってきました
しかも
興味深いことに
ある食料の輸入から
周防大島の人口が増えたため
農地が少ない島からの
生き抜くための手段として
職人が発生したのではないかという事でした
その ある食料とは
そうです
サツマイモです!
そのことについては 話が違ってくるので
今回はとりあげません
以上 要約終了…
私の住む地域から
ほんの少し離れた場所に
そういう神社が数件あり
最近 毎日息子を学校まで送るその道にさえも
多く 歴史の痕跡が残っている事を知ったわけです
人が歩く 道を あらためて見ていくと
身体で作り上げてきた
本当に息遣いまで はっきりとわかるような
肌で感じる 歴史が 目の前に現れます
東京の豊島区 南長崎という地域で
私は生まれました
商店街が とてもにぎやかだった昭和40年代
でも 当時 そこが 大きな農家や
とても大きな神社が中心になっていた村だった事
毎日行く銭湯で
近所のおばあちゃんや おじさんの会話から
10歳くらいの私達子供でも
理解していたのですが
勤務先に行くために 電車に揺られ 疲れきり
一家の団欒を守るために中継地でストレス発散し
現状より何かを探してもがいて歩き
夕食に身体を休める為の手段として
身体に鞭打った 対価を いただく日常
こういう過去の銀行員時代の私の生活に 救いがあったとは
今となっては
私には思えないし そういう生き方から
土地の由来などに触れることはできません
子供の頃に 稲荷神社、長崎神社など、
土地の祭に加わった記憶が もし無かったら
私の文化の基準は きっと 写真や宣伝に操作されやすい
先祖の記憶を持たない 都市への移住民と同じでしょう
何かが 壊れゆく 恐怖を
特に2011年3月11日に 私は感じ始めていて
深く考えると ますます わからなくなりそうですが
考えないという 楽な方向へ行かないように
踏みとどまる為の ひとつの試みとして
何とか 書き残しておきたいと思います
本気で 色々 考えてみようじゃありませんか!?