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地球の舳先から vol.214
東北/被災地 定点 vol.1(全10回)
国境の、あの抗い違い引力とは、何なのだろう。
まだ見ぬ風景のなかに身を投じて、なにかを得ようとする。いや、感じようとする。
目に映った光景が、信じられないようなものだったとしても。
パスポートを置いて、“国内”であるところの被災地に行く気には、長らくならなかった。
「行ってもしょうがない」と「行く勇気がない」の主に2点が足を止めさせていた。
物理的にも非力なわたしなぞが行ったところでできることなど無いし、
行って心を紛らわせたいというのであれば、それは自分のため以上でも以下でもない。
軽々しく足を向けて、安っぽい感傷に浸りそうな自分が、とてつもなくイヤだった。
しかし、今まで自分が旅に出るのに、たいそうな大義などあっただろうか?
旅に出よう。遊びに行こう、被災地に。
そう思ったのは、有楽町の献血ルームだった。
お金もなければ力もないわたしが直接的にできる人道支援など献血くらいのもので
この日、1時間もかかる成分献血のベッドに持ち込んだ雑誌が新潮社『旅』だった。
贅沢にページ数を割いた気仙沼特集は、“新・気仙沼マップ”が紹介されると共に
「気仙沼は今の姿であっても、来てもらってじゅうぶん楽しんでもらえるところ」
とした現地の方のコメントが載っていた。
ボランティアとして、でなくても良いのではないだろうか?
救援物資や義捐金を、積んでいければそりゃいいのだろうけど、
一個人として、遊びに行ったっていい、旅したっていい。いや、「よかった」のだ。
それでも割り切れきれずに「大義」を求めたがるわたしは、雑誌で紹介されていた
気仙沼の若い人々が無料で街を案内してくれるという「気仙沼気楽会」のツアーに
申し込み、ただひたすらその日を待った。
3ヶ月がかりで出費を抑えて旅費を捻出したわたしは出発前夜、軍資金を並べて
東京で節約して東北で豪遊すれば、いまだにいくら調べても複雑すぎる“ふるさと納税”をするより簡単だ、などと思ったりしていた。(本質的にはまったく違うが…)
朝7時に起き、仙台へ向かう高速バスへ乗車する。久々の豪雨。
車中で、福井晴敏の『震災後~こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか』を
ハードカバーで読んだ。
福井晴敏は『終戦のローレライ』『亡国のイージス』などの作者であり、わたしの一番好きな作家だが、福井作品には珍しく、ヒーローの出てこない話だった。
あの震災から時系列を追って、ほぼ事実に即して展開されるストーリーの主人公は、作中でも“無辜の民”と表現されるほどぱっとしない。
しかし仕事をし、家族を守り、愚直にまっすぐ生きてきた無数の民衆が日本を作ってきたのだ、というメッセージは大いに伝わった。
そして、現状は、だれかのせいにできるものではない、たとえ未来に負担をかけていたとしてもそれは良かれと思ってやってきた結果であって、わたしたち全員が逃げずに当事者であると自覚すること、それもひっくるめた上で時代を紡いでいくこと。
それが、未来をつくることなのだ、ということも。
震災後、どうしても声の大きな人が目立つ。
そこに引っ張られてはいけない。
ほんとうの“現場”は、テレビの画面に映るようなものではないのだ。
できるだけ、普通の人に話を聞きたい。
そういう旅にしよう、と、いつもより格段にゆっくりページを繰りながら決めた。
まずは仙台でバスを乗り継ぎ、わたしは南三陸町へ入った。
途中、戸倉地域で、何かに削り取られたように崖壁化している松の木と、廃墟と化した建物を2棟見た。無論、何に削られたかは明白だが、その鋭利さに驚く。
泥に塗りこめられ、色を失った光景。
翌日、比較にならない光景を目の当たりにすることになるとは、
このときは、予測はできても実感はできていなかった。
つづく