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今日は2011年11月17日 木曜日。
今住んでいる愛媛県の内子町という里山に2003年、東京から移ってきて、8年になる。
曲独楽師という、寄席では馴染み深いコマの曲芸。
一般社会に出れば、はっきり言って誰も知らない仕事だったりする。
以前、たくぎんという銀行の職員だった事がある私は、当時を思い出しても、
よほどの事がなければ、たとえ東京に何十年も住んでいても、
寄席という場所には全く、行く事も、ましてや知る事さえないし、何の利益にもならない
事柄に対しては、本当に興味を持つ機会が無かったと思う。
馴染みが無いというその証拠に、多くの芸人の親族が、当然のように芸人になっているかというと、ぜんぜんなっていないのが現実。
特殊な環境にある職業である事は、一緒に住んでいる家族が、一番知っているから。
曲独楽という芸は、その中でも今後が心配な芸の種類なのです。
確かにコマを操る手わざや、客席とのやりとり、そして魅力的な雰囲気、日本を代表する寄席の色物のひとつである事は、本当にそうだなと思う。
曲独楽、今の状態は、非常にピンチなのに、それを訴えるべき機会も、場所も、寄席、そして演芸に興味のある人たちの中での話題に留まってる。
だって、そうでしょ?
私達が20年かかって、曲独楽の材料である国産の木が入手困難になり、曲独楽製作者が途絶えそうだと説明してきた事、皆さん知ってますか?
知らないよね。
だって、曲独楽をする人は増えているじゃないの。
ましてや、静岡の大道芸なんて見たら無くなるなんて、誰も信じてくれない。
私は、本気で誰かに説明したかった。このJunkStageという場所は、もしかしたらいい機会なのかもしれないと、私は考えたから、亭主と喧嘩しながらでも、コラムに言いたい事を書いていく。
これは、もう十数年前に文化庁の依頼で担当した、太神楽曲芸協会の協会員だった当時の、伝統的大衆芸養成講師、という肩書きで、曲独楽を生徒さんに教えた時に感じた大きな問題点。
曲独楽を教えるのも、演じるのも、一生懸命することで、手ごたえを得られます。
それは確実に感じられる幸せとして、後継者が育ったり、お客さんに拍手で応えて頂いて、形が無くても、本当に生きてて良かったと思う瞬間を手に入れられる。
芸人冥利に尽きる瞬間。
でもね、芸人として自分は良くても、その場のお客さんの思い出に残る素敵な芸をご覧頂いていたとしても、その曲独楽自体が、幸せじゃなかったら、きっと人の心には、響かない芸になる。
曲独楽に幸せ感なんか、あるわけないと思いますか?
私はそうは思わない。
芸を終えた後、へとへとでも、私は「ご苦労さん、今日もありがとう。」
ひとつひとつの曲独楽に声をかけて、心棒をピカピカに磨き上げ、しまって置く。
どの曲独楽も、手に入った時名前を付けたり、番号をふったり、好きな色を考えて、
指定の色に塗って頂いたり、重いからと、せっかく完成してもまたヤスリをかけて、
塗り替えたり、そして入門したての頃に公園で稽古中コンクリートにぶつけて破壊したり、色々な思い出がある。
使った木の種類も、収集家の方が一生かけて集めた木を譲ってもらったもの、仲間と公園の桜を分けてもらって作った物、巳也襲名のお祝いにいただいたりと、その生い立ちも様々。
桜、山桑、椿、桂、栗、タモ、イチョウ…
やっぱり、曲独楽は、綺麗じゃなくちゃ、ダメだ。
私は本当にそう思う。
かつて、曲独楽作りの人が居なかった時期、寄席芸人は、手持ちの曲独楽を、
何とかして壊さないように、心棒を曲げないように、小道具をそっと扱う事に、
本当に神経を使ってきたのです。
今は有りがたいことに、広井先生という方が、曲独楽製作を復活させてくれたから、
この芸は綺麗な曲独楽で、紹介できるようになったのです。
多くの愛好家さんたちは、曲独楽を買うだけで、先生の苦労話など、しらんぷりです。
あああ、こんなことがあっていいのか。
私はどうにかしたいと、本当に思っています。
芸だけ突っ走って、いいはずがない。
紋也師は、何度も広井先生と一緒に仕事してきました。
ことあるごとに、その困った事を、テレビ収録の度に説明する機会を設けていました。
でも、今、どうなんだろう。紋也師が亡くなった今、何が残ったのか…。
私も、これからいろいろ考えていかなくては。
困った事になる前に。