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古典というと 皆さんはどんな印象を持つだろうか
いつも同じ事をしているという感じだと思うけれど
私にしても入門当初は経験が無いわけだから
ほとんど素人同様のお粗末な新人であった。
そのお粗末さんが、いかにして今の図々しい三増巳也に
変容していくのか、その過程を読んで貰っても
何一つあなたの人生に良い贈り物などできないので、
本当なら芸人の私は、いきなり割愛してしまうのである。
でも、このJunkStageコラムを担当している皆さんの姿が、
そのコラムを通じて親近感を憶えるまでになるのは、
あえてそういう自分にとって最もつまんない自分の事を、
きちんと書いているからだと思うので、
Junkerな先輩達に倣ってみたい。
新人の時ほど情けない時代は無い、と私は思い出す。
芸の現場では、すべてにおいて先輩の意見を聞くのが
慣例というか、日本の芸の社会ではそれも当然という
極めて特殊な事情がある。
そのことについては、追い追い書いていくつもりなので今回は見送るけれど、ともかく情
けない事この上ない。
池袋のデパートの正月イベントで初舞台の緊張を経験、
一緒に出演していたマジシャンの息子さんが今は活躍する時代になったくらい、ずいぶ
ん前だけど、あの緊張感は忘れられない。母親と舞台に立った、ごく短い間だったから、
心温まる源氏ファミリーでのデビューができたのは、うれしい事だった。
情けなさを経験するのは、それ以降の独りで務めた舞台での事。
性差というのは、私にとってとても大きな影響力を持つ人生の問題点なのだけど、さら
っと書く筆力が私にはもちろん無いから、しつこく何回もこれから出てくる事をお断りして
おかなくちゃいけない。
お嬢ちゃん、である。
身の毛もよだつ、お嬢ちゃんであった。
とにかくそういう楽屋での呼び名がついて回った
だいたい当時、1990年代は、芸の魅力を一般の生活をしている方たちが経験
する機会すらなかったからだと言えるから、無理も無いけれど、20代の女
性が芸をしているかというと、私以外には当時は10人も居なかった。
楽屋では40から50代が中心なので、先輩が親しみを込めて呼んでくれる、
お嬢ちゃんになるしかなかった。
私にとっては、呼ばれるたびに総毛立つ鳥肌芸人の新人時代を、今では一切触らなく
なった南京玉すだれと共に過ごした。
はっきり言って、これだけだったら芸をする人としては、その表現の芯の部分において
壊れたろうと思う。
技術的な制約があまり無い芸なので、演じる側の思う事をそのまま乗せていって、作り
上げていく舞台。
お嬢ちゃんに甘んじて、そういう芸で通しても良かったはずだし、それが一番世渡り上
手な方法だ。
若いからメディアもすぐに取り上げるので、こんだけで出ちゃっても、何ら困るはずはな
い。甘い甘い誘惑は、これのみでなく、色んな場所に転がっている。私は女だから、男
にとっての誘惑とは無縁だけど、落語でいうなら三道楽煩悩さんどらぼんのう、酒、女、
金の対極、酒、男、金だろうか。
とにかく新人は、あらゆるところで試される。
甘い誘惑で釣り放題なのだった。
その中でも一番難しい事、飲みに行こうよ攻撃、これがもっとも多い。
確かに一般的に考えたら、飲む席での社交は欠かせないから、いい事なのだけれど、
私にとっては毒だった。酒は飲めないほうなので、特にそう思うのは仕方ないと思う。
父が飲めないから、体質的にも酒の席で社交が可能なお嬢ちゃんではいられるはずも
無く、ぜんぜんお付き合いしなかったわけじゃないが、ほとんどお断りした。
しっかりした理由が、実はある。
体を使う曲芸、太神楽、曲独楽、その先輩が必ずアドバイスしてくれる事、
酒は飲むな。
私も父からそれを聞いていたから、曲独楽入門前の大事な今、動かなくなったら大変な
ので、一切飲まないお嬢ちゃんとして、新人の源氏うららで2年を切り抜ける事が出
来た。有り難い忠告を頂戴できた私は、やはり父の恩恵を受けている運の
良いデビューができたわけだ。常に酒を飲んで曲芸を長くしている人を、
私は見た事が無い。こういう忠告をしてくれた現場の先輩は、戦争さな
か、そして何でもありの戦後の芸の混乱期を見た上で、若い人にあえて苦
言・金言をくれる。でもみんながそういう恩恵には預かれない。
身内じゃないから、というのが理由である。
私の場合、源氏太郎の娘である事を、源氏うららという芸名で知る訳だか
ら、「タロチャンのトコの、ああ、大きくなったんだねぇ」ってな事で、
最初は怖い印象の大師匠が、色んな父の失敗談やら、母との楽しい話な
ど、私が知らない話をしてくれたり、楽屋では本当に歓迎して頂いた。
酒をいつも飲んでいる御大も、もちろんいるのだけど、物まねだったり、
漫談だったりして、体を使う芸ではなかったから、長い現役を目標にする
なら、酒は飲むな、との言葉は信憑性のあるものだった。
父も82歳だけれど今でも2000曲のハーモニカ演奏はできるし、皿
は回せるし、ウソだと思うなら浅草の東洋館という元ストリップ小屋
の寄席に毎月10の付く日に出ているので見に行ってちょうだいな。
そんな風に、私は酒の席を付き合わないつまんない若手をまっしぐらに、
真面目にデビューした。
…実は遊びは既に済んでいた。
要するに、遊びの目的が伴わないから酒の席が苦手なので、ケチなのである。
まったく素人という時期を楽しむ為に、初舞台を踏む前の半年間、私は遊び納めを律儀
に済ませていた。
当時追っかけに近いファンだった歌舞伎俳優の中村吉右衛門丈に会うために、「鬼平犯
科帳」収録中の京都の撮影所まで行ったり、対談がある舞台公演も結構観に行った。
その時に観た中村芝翫丈の道成寺の舞踊の凄さ、今でも忘れない。
静かに踊っているだけなのに、妖気が感じられる物だった。蛇の精に変わってしまう役
柄だから、劇中ではよくわかるけれど、踊りだけの舞台でその表現ができる事、当時多
分絶好調だった芝翫丈の芸の凄さを目の前で見られた幸せ者である。
私は、そういういい勉強をさせてもらう一方で幼稚園から一緒の友人と連れ立って米米
クラブのファンツアーでハワイで遊んだり、という調子であったけど、ガチガチの銀行員時
代が長かったから、いい経験であったかなと今は思っている。
ああ、書いていて面白くない。
次回はちゃんとした事を、やりたい事を、書いてみたいのよ。
読んでくれてありがとね。