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2011/10/23

皆さん、おはようございます。

まあ、私がちょっと極端すぎるのかもしれませんが、
私は、信仰という行為に対してかなり嫌悪感があります。
「宗教」という言葉を、一般にイメージするような事柄と
定義するのであれば、私はおそらく
「宗教嫌い」という種類の人間だと思います。

その一般的イメージの「宗教・信仰」を定義するとしたら、
科学的に証明されない存在の実在を信じ、崇め、
その存在の意思、その存在の決めた掟に従おうとする行為、
という定義づけができるのではないでしょうか。
この定義において、私は完全な「無神論者」です。

ですから、私は例えば不動明王を拝むことはしますが、
不動明王が人間の発生より先に存在した、とは考えていません。
さりとて、不動明王が宇宙の内外どこにも存在しない、
と断定することもしません。
それどころか、ある人がそれに接したら、
「不動明王だ!」と思うような存在が実在する可能性は、
決して否定できないと思っています。

長い歴史の流れの中で、
誰かが感じた、「ある働き」をする存在のことを、
いつしか不動明王と称し、感じる人、信じる人が増え、
かなりの力を発揮するようになった存在、
あるいは「働き」が実在しているのでしょう。
つまり、多くの人の想念によって出来上がった「形態」です。
そんな「形態」の実在は推測できると思っています。

これはどの神仏についても共通することで、
根本的に人間より偉い存在である、という扱いはしません。
よく唯物論者が言う「神仏なんて人間が作ったものだ」という言葉を、
そっくりそのまま、もっと実在的意味を込めて私は申します。
そう、まさに念の力で作り出した半実体と考えているのです。

密教には、そういう存在、つまり「諸尊」を本尊とした行法があり、
神秘主義的な扱いがなされています。
私はそれらの行法を、修練の手段として有効活用しますが、
それは目的のための筏、手段でしかありません。
神秘的な要素も右に同じです。
人を変成意識に導くのに、神秘的な要素は欠かせません。

例えば、一般的なプロテスタント教会のように、
神秘的な場づくりがないままに聖書に没頭ということは、
私はあまり賛同できません。
教義には賛成できかねるカトリックの、神秘的な雰囲気作りは、
是非プロテスタントも大いに取り入れるべきだと考えています。

同じことを、密教を用いた仏道修行にも考えています。
しかも、その神秘的要素を必要以上に過信しない。
道具として見事に使いこなす。
その意味では、まさに法の主宰者、
自らが本尊となる観想のうちに臨むべきだと考えているのです。

このような私ですから、人々が「信仰」をしている姿を見ると、
それを打ち壊したくなるのです。
信仰している宗教の内容ではありません。
「信仰」という姿勢をです。
なぜなら、そんなことをしても、人間は悟りを得られず、
ブッダ(目覚めた人)にはなれませんから。
あくまでも仏教徒たるもの、
釈迦に追いつけ追い抜け、引っこ抜けという気概を持つべきです。

2011/10/23 12:17 | bonchi | No Comments