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2011/10/15

こんにちは。根本齒科室の根本です。

前回申し上げたように、今回のエントリーは歯とはほとんど関係ありません。
最近ちょっと気になっている「私たちにとっての民主的とか自由とかとは何か?」
ということについて、専門外ですが少し見解を述べてみたいと思います。

私も含めて、今までは「選挙や議会があるのが自由や民主主義のキモだ」
くらいのレベルの認識の人が多かったと思います。

ふと最近、私たちは『予』という漢字が示す内容が根本的に肌に合わないのではないか
と思いました。

すでにご案内のように、歯科での『予』防の重要性。SPEEDIの『予』測。除染の『予』定。
どうも私たちはとことん、『予』という漢字から逃げ回っている感を強く持ちます。


たとえば、まだ日本では、歯科疾患のない方に対する歯科サービス(=『予』防)は
公的には提供すらされておりません。

最初は「このように道理が通らないのでは国民の歯が気の毒だ」などと思っていました。
しかし、そこにご存知のように、東日本大震災が発生しました。


このことを通じて、私もいろいろと深く考えさせられました。
また、厳しい国難に瀕して、日本人が自らも気がつかないその正体を否応なく
目の当たりにしてしまった事件であったようにも思いました。


で、私なりの結論から言えば「日本はとことん民主主義的なものが嫌いだった」です。


それが良いとか悪いとかではなく、利点も問題点もあることを踏まえた上で、
私なりの結論としてそうであった、とういうことです。

歯科の治療についても
「今まで患者様に歯の道理ばかり説いてきたつもりだったが、こりゃ、無理かも」
とすら最近は思います。

日本は戦後、科学技術や経済を発展させ、勤勉で節度あり礼儀正しい民族として
世界から、ドイツなどと並んでかなり高い信頼や評価を得てきました。
これがあの震災で「日本の上から順番に」すべて吹っ飛んでしまったのです。
今となっては「加害者」「世界を汚染する厄介者」呼ばわりさえある始末です。

まずは津波が大変でかなり慌てましたが、全てのケチのつき始めは原発でした。

最初やらかしたのは政府でした。
「パニックになるから情報を伝えない」としてSPEEDIデータを隠したのに始まり
「ベントの視察は正しかった」「ただちに健康に影響はない」「爆発的な事象が」
「実測値がないからSPEEDIは公表しなかった」・・・
(SPEEDIは『予』測用なので、競馬の『予』想と同じで仮の値で計算するはずなのに・・)

次にやらかしたのはマスコミでした。
F1の3号機の爆発もメルトダウンのことも、私たちが最初に映像として知ったのは
テレビではなくYouTubeなどのネット経由でした。
どのチャネルをひねっても御用学者が「爆破弁の成功」「低線量はむしろ健康によい」
これではテレビにばかり頼っては情報が偏りすぎて、むしろ有害だという感じでした。

今までの政財官癒着とロビイングのせいか、当事者である東京電力に対してほとんど
追及らしい追求がなかったことも、一市民として大きな憤りを感じました。

その後は自治体(とくに県レベル)でしょうか。
茨城県の橋本知事が強く交渉して、茨城県の計画停電が回避されたときには
「おお、首長もしっかりがんばっているなあ」と思ったものです(他県の方、すみません)。
しかし、いかんせん災害の規模に対して財源がなさ過ぎるという面はあるものの
地方公務員のみの力では多方面で早い段階での限界を感じざるを得ませんでした。

とくに線量(ベクレル・シーベルト)の測定に腰が重く杜撰であったことは遺憾でした。


このあたりまでは、読者の方も「そうだそうだ」とお思いの方も多いと思うのです。
「なぜ国や政府は私たち国民を見殺しにするのか」と怒った方も多いでしょう。当然です。

ただ、ここから先は、非常に困難なことを申し上げざるを得ません。


それほど遅くない段階でやらかしたのは、被災地を含む私たち住民自身でした。
「あれ、俺ら日本人って、こんなんだったっけ???」私も深く驚きました。

一時、福島県民をホテルに泊めないなどの残念な差別や、買占めなどもありましたが、
重要なのはおもに現在も問題になっている環境汚染や食物の風評被害の問題です。

この点については、一部の御用学者御用医師が、当初より無用な安全デマを流して
回ったことも大きく影響するので、その点は十分割り引いて考える必要があります。
また、国や東電、自治体の助力がきわめて貧弱である点も十分勘案すべきです。

コラムでもたびたび上げていますが、現在、私がこの震災に当たって、もっとも
民主的かつ合理的だと思うのが、武田邦彦先生や児玉龍彦先生などの見解です。

綿密かつ包括的な食品測定と除染でのみ東北が救われる、という趣旨はまさにその通りです。
これこそが「原発推進」「反原発」にかかわらず、今緊急にやらなければならないことです。
(むしろ推進派こそ包括的測定と除染を主張すべきであり、推進に有利ですらある)
(純粋な「原発推進」と「原子力ムラ推進」は思想の本質が異なると考える)

逆に「推進」「反対」などと論争して「測定」「除染」を忘れさせることこそ
優先順位の無視であり本末転倒、東北や日本にっては大きな迷惑です。
そのような国家百年の計は、しっかり福島をきれいにしてからにしていただきたいものです。

また、災害などの混乱時に大規模改革を進め過ぎることは、ナオミ・クラインが著書
「ショックドクトリン」で固く戒めるところでもあります(先日、和訳が出ました)。

しかし、私の見解では、以下の点だけは、両先生とはことなります。

彼らは現在を「日本でのパターナリズム(父権主義)の終焉」の転換点という見方をします。
児玉先生は「住民はそんなにバカじゃない」とまで持ち上げてくれています。

ところが、私の見解はそんなに甘いものではありません。
残念なことに地域住民や共同体の方々みずからが、まさに戦前さながらの
「観念論的な言霊信仰」に自主的に退行した姿を、数多く目にしてしまいました。

「観念論的な言霊信仰」

要は、(論拠やコンセンサスに基づいた事実など)客観的・建設的なことをいう奴は
神経質な奴なので気に入らない、(情報を)見ない聞かない測らない、黙って我慢しろ
ということです。

具体的な例は多くあります。

ある小学校では、給食の汚染度が不明で心配なので弁当を持たせたいと親がいったら、
給食は教育の一環なので我慢して食べろ、と言われました。

別の小学校では、牛乳を飲みたくないといった子供4人が先生に立たされて、牛乳を
バケツに捨てさせられて「これを呑めないお前たちは○○県民ではない」といって
怒られました。

岩手県某所では、避難所から盛岡の温泉旅館に避難する人に対して「我々を捨てて
出て行って、都合のいいときだけ(また後で)泊めてくれなんて納得できない」とか
「自治組織が『出て行ったヤツは、戻ってこないでくれ』と明確にしている」所もある
などの、被災者同士での葛藤や厳しい対立も報道されております。

某病院では、震災・原発事故を理由に休んだスタッフを、即時解雇したそうです。
それを見ていた残ってたスタッフは、怖くて一時避難できなくなったという話もあります。

最近一番びっくりしたのは、武田先生のブログで、「福島や関東の野菜を売るために
汚染されていない南の野菜を捨てさせている」との記事が報告されていたことです。
ソースがないのでリンクにとどめますが、なんという『集団自決』的な発想でしょう!

その他、多くの類似の事例を皆様もニュースなどでご覧になられたことでしょう。
小さいお子様をお持ちのお母様が安全なところに一時避難したい、というのを、主に
亭主や舅・姑が反対して引きとめたり、汚染度の不明な食物を食べさせたりしている
という例が非常に多いのもご存知の通りです。

・・・

もちろん、一番いけないのは、この国難に被災者を兵糧攻めにして助けようとしない
政府と財務省であることは言うまでもありません。
GDP500兆の国で、これだけの震災に、補正予算が高々数兆などというのは、まさに
「積極的な見殺し」そのものであり、それだけでも万死に値します。

住民の方々も、普段からそのように女性や子供を蔑ろにしたような考えではないのは
当然のことです。
しかし、ほぼ人災に等しい不作為も事ここに窮まって、二進も三進も行かなくなって
私たち日本人の無意識から出てきた発想と行動様式がこのようなものであったことは
極めて遺憾なことでした。

もちろん同じ日本人である私もいちど虚心坦懐に、自分自身を知るという意味でも
その原因を省みる必要がある、と強く感じました。

何かあると、政治家や官僚の文句ばかり言って溜飲を下げてばかりでは、
ものごとの本質的な理解や展望・解決策は遠ざかるばかりだと思うからです。
これが今回、少したまった歯のネタを差し置いても、私なりの浅学非才を記す理由です。


私がここここのコラムで、民主主義を支えることの困難さを訴えたことがありました。
あれからもう3ヶ月にもなります。

この感覚が間違っていることを心から願うばかりですが、ほんとうは、私たち日本人は
「賢 帝 に よ る 独 裁」の方が民主主義よりも肌に合っているのかもしれない・・

たとえば「堯帝の鼓腹撃壌伝説」「楽市楽座・江戸元禄文化」「ケマル・アタテュルクの
トルコ建国」「現代のシンガポール、返還前の香港」などなどetc
なんだか平和で豊かで良さそうなものが多いですよね。

①経済的に困窮しない
②日常生活に著しい不便・不満がない
③行き過ぎた圧政ではない

この辺が保証されている限りは、面倒くさい民主主義よりもこっちのほうがイイ。
(選挙はないけど)
あなたも本当はひそかにそんな感じがしませんか?

たまに役人が天下りしていても、政財官癒着していても、政治改革をしていなくても、
治安が良くて自分たちも豊かで娯楽も多くて楽しければ、それで十分ではありませんか?


ここのコラムに目を通されるようなレベルの方には信じられないかもしれませんが、
いわゆる団塊層やOQ層などの守旧派が、モラルがないなどといって執拗にネットを叩くのは、

「いけない、これでは日本国民が民主主義化してしまう。何とか時計の針を戻さないと」

という、遺伝子にでもしみついた(この表現は科学的には正しくありません。比喩です)
心の叫びなのではないかと思います。

たとえばネットのことを「ネトウヨ」などと揶揄するのも、表面的な排外主義の批判云々よりも

◇ 今まで隠してきたことがネットで詳らかにされてしまいコントロールできないこと
◇ その内容の多くが従来型の心情(=信じたいこと)と異なるのが不快であること

のほうがよほどが許せないのではと肌で感じます。
その理由は、TPPの論議などでもそうなのですが、片方の意見(ここでは守旧派やTPP賛成派)に
極端に合理性や客観性が乏しく、感情論に終始しているからです。

これは一見、それぞれにおいて表面的な理屈のこねあいに見えますが、根の深いところでは
守旧派の「日本型封建主義・統制系」とネット派の「日本型民主主義・情報系」のせめぎあい
なのだろうと思います。


そしてやはり、今や復興を遅らせ、国の進路を誤らせ、国際的な信頼を損ねることが明白な
「日本型封建主義・統制系」や団塊・OQ的な発想の元となるものを考え直してみるべきです。
なぜこのような非合理的な発想が出てきてしまうのか、原因しっかり見据えておかないと
今後、何事においても本質的なところで誤りを犯してしまう可能性を強く感じるからです。

私は、「アレ」がちょっと気になっています。次回以降、その点について述べてみます。

【今回のまとめ】

震災で、『予』の字がなぜか嫌いだった日本人の特性の一部「アレ」が明らかになった。

2011/10/15 01:06 | nemoto | No Comments