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2011/10/02

皆様、おはようございます。
12月5日の夜、お好み工房「ほわっと」でモーツァルトのレクイエムを演奏します。
没後220年企画の締め括りです。
そのために・・・というわけでもないですが、
私なりのモツレク集大成ともいえるバージョンで演奏します。

ご存知の通り、モツレクは未完成ですので、
本来的にモーツァルトが書いたのは、
レクイエムの断片、です。
これに、周囲の人やら後世の人やらが書き足し、継ぎ足しして、
通して演奏できるようにしたのが、
現在数種類存在するモツレクです。
その出回っているものをいくつか、説明してみましょう。

・ジュスマイヤー版
モーツァルトの死後、初めて完成された版。
弟子のジュスマイヤーが残された骨組みをもとに肉付け、
ラクリモーサの9小節以降、サンクトゥスとベネディクトゥス、
及びアニュス・デイはモーツァルトの主題などを参考に作曲。
余計な飾りが多いこと、作曲技法上の間違いなど、
批判は多いが、ともかく完成にこぎつけた功績は評価されるべきである。

・バイヤー版
ジュスマイヤー版の誤りや稚拙な部分を
よりすっきりとしたものに改めることを目的として作られ、
全体の構造には手を付けていない。
しかし、出来具合は評価に値するものである。

・モーンダー版
基本的にジュスマイヤーを否定するコンセプトで作られている。
ジュスマイヤー作曲の部分はアニュス・デイ以外徹底して取り除き、
ラクリモーサは独自に繋げてモーツァルト本来の構想である
アーメン・フーガを完成させて完結させ、
アニュス・デイは改作している。

・レヴィン版
ジュスマイヤーの功績は認め、使える要素は残した上で、
モーツァルト自身が完成していればこうなったであろう、
と思えるボリュームに仕上げている。
もちろんアーメン・フーガも完成させている。

・ドゥルース版
学究的姿勢ではなく、自分がもしモーツァルトの同時代人ならば、
というファンタジーで、独自に補筆した版。
従って、らしさ、に欠けたり、冗長に過ぎたりする部分も。
こちらもアーメン・フーガは完成させている。

・ランドン校訂版
補筆を自ら行うことは必要最低限にとどめ、
コンフターティスまではアイブラー版、
ラクリモーサからジュスマイヤー版をベースに校訂している。
その精神は、補筆にふさわしい人選は、
あくまでモーツァルトの周囲にいた人間たちだ、というものである。

※アイブラーは、ジュスマイヤー以前に補筆を依頼され、
 試みるもコンフターティスまでで断念。
 しかし、品質はあらゆる版の中でぴか一。
 モーツァルト自身、最も高く評価していた同僚であった。

これらの版をもとに、かねてより私が用意していた、
ぼんちセレクションともいうべきバージョンで演奏致します。

コンフターティスまではランドン校訂、
つまり、キリエまではモーツァルトの死後1週間以内に、
近親者たちが追悼のために急いで完成させたものと、
それ以降はアイブラーの補筆による完成版。
そして、ラクリモーサからは規模を重視し、
レヴィン版を使用。

これで、モーツァルトが完成していれば為し得たであろう、
品質と分量とに最も近づけることができると確信しています。
もちろん、今後これを超えると思われる理想的な補筆が登場すれば、
私のセレクションは更新されることになります。

この本編に加え、その演奏終了後、
モーツァルトが残したアーメン・フーガのスケッチ、
それに続いてモーンダー版による
ラクリモーサとアーメン・フーガの完成版を演奏します。

アーメン・フーガについて、
レヴィン版とモーンダー版を比較すると、
いくぶんレヴィン版は学究的色合いが濃く、
モーンダー版は文学的、情緒的な色合いが濃くなります。
しかし、本体としてはレヴィン版がふさわしいと感じられる一方、
モーンダー版の文学性は捨てがたいものを感じます。
よって、モーツァルトの人生を思い起こすためにも、
フーガのスケッチ、モーンダー版のラクリモーサとフーガ、
というピースを演奏することで、
演奏会を締め括りたいと考えているのです。

2011/10/02 08:17 | bonchi | No Comments