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メラ村二日目の朝は快晴だった。
キンと冷えた、凍てつく寒さが身を震わせるが、ここではまだ秋の口。
せっかくの好天なので、30分ほど朝食前の散歩をすることに。
朝食後、隣村であるゲンゴ村へ行ってみることに。
ブータンでは、隣村と言っても、実は歩いて2日かかる、
なんていうことが往々にして起こるのだが、
メラからゲンゴまでは、わずか1kmほどの道のり。
もはや、ブータンでは同じ村、という認識かもしれない。
道中、昨日は曇り空で見えなかった聖山ジョモ・クンカルがはっきりと見えた。
この山は、メラ地域の人々が信仰する、女神アマ・ジョモが住んでいる、
と伝えられている山で、年に一度、山の中腹にある湖で祭事が執り行われる。
が、個人的には、ゲンゴとメラの間の小高い丘の上に建つ電波塔に興味津々。
昨日の話(前回記事参照)を思い返しながら、
「あれが、5年前に建った携帯電話の電波塔か…」
と、普通の観光客では有り得ない謎の感慨にふけっていたところ、
村の若者から奇異の目で見られたことは言うまでもない。
さて、ゲンゴ村は、確かな数字は不明だが、人口は数百人程度の小村で、
1時間もあればぐるりと一周できてしまう規模だった。
その後、メラ村へ戻り、村内を散策したが、これまた、せいぜい1千人足らず、
というサイズだったので、寺や小学校などをじっくり見て回っても、
半日あれば事足りてしまうくらいの、そんな規模感だった。
と、こんな風に過ぎていった一日であったが、
その間、一応、旅の主目的であるメラ地域の携帯電話事情について、
事あるごとに村人に尋ね歩いていたわけで、その一端をここでご紹介しておこう。
前回記事でも書いたように、メラ村に携帯電話の電波塔が建ったのは約5年前、
電気が通ったのは約3年前、そして、道路が通ったのが約3ヶ月前。
日本人的な感覚では、インフラ整備の順序が逆転しているのだが、
ブータンのような急峻な山々に囲まれた土地では、
電波塔<電線<道路の順に設置の難易度が高くなる。
とはいえ、携帯電話の電波塔が建った2010年当初は、
役場勤めの公務員や学校の先生などが主に携帯電話の利用者であり、
彼らは基本的には、「村外から派遣されてきた人」だった。
メラの人たちは、そういったソト者が利用する姿を見て、
これは便利だと気付き、結果、徐々に村民の間でも普及していったようだ。
ちなみに、当時は携帯電話を持っても、マニュアルなどない(読めない)ので、
その使い方がわからず、受話口をおでこに当てたり、逆さに持ったりしていた、
という逸話も聞かせてもらった。
着信の方が簡単(通話ボタンを押すだけ)なので、村人から外へかけるのではなく、
外から村に用事がある人がかけてくることが多かった、とも聞いた。
このあたりは、なんだか日本でもありそうな話だ。
ところで、メラ村での携帯電話の主な用途はといえば、
どうせ山奥で娯楽もないだろうから、世間話に花を咲かせているのでは、
と勝手に思っていたのだが、そのアテは思いっきり外れた。
例えば、遊牧民の一家では、ご主人が放牧地から家にいる奥さん宛に、
村へ戻るスケジュールの連絡をしたり、
あるいは、冬季に入る前に、薪を集めて運搬するための車両を手配したり、
そんな利用が一般的らしい。
意外なほどに現実的というか実用的な内容が多く、正直驚いた。
そんな実用性重視な理由もあり、ヤクの放牧を担う牧童の子なんかは、
小学校卒(あるいは中退する子はもっと若い)時点で携帯電話を持たされる、
というから、やはり日本とは相当勝手が違う。
こうした差異は、この地域において、「情報」の持つ価値とは何か、
あるいは、価値のある「情報」とは何か、を考える上でヒントを与えてくれる。
日本では、一概にはそう言い切れない面もあるが、概して、
若年で携帯電話を持つ家庭というのは、比較的裕福な家が多いとされている。
そして、若年層が携帯電話を持つ場合、その利用目的は、
十中八九、いやそれ以上の確率で「娯楽」だろう。
友人とメールやSNSなどで連絡を取り合う、ゲームをする、
写真を撮ってSNSに投稿する、音楽を聴く、本を読む、動画を視る。
そういった「非生産的行為」が、携帯電話の使途の大半を占めている。
しかし、メラ村の人々が携帯電話を買う、その目的は至ってシンプルであり、
生活の道具として、投資する価値を見出している、と言える。
これはメラ村に限った話ではなく、ブータンでは各所で似たような話がある。
最後に、メラ村で聞いた話の中で、最も面白いと感じた話を紹介しておこう。
30代男性のTさんは、現在は村にある寺の堂守の役割を担っているが、
かつてはヤクの遊牧を生業としていた。
夏になるとメラ村よりさらに山奥の牧草地にヤクを連れて放牧へ行き、
冬にはメラ村より低地の牧草地に移動する、という季節移動を繰り返していた。
奥さんとは、今から10年前、遊牧の合間のわずかな村滞在の際に知り合ったが、
村を離れることの多いTさんは、なんとかして彼女と連絡を取り合いたかった。
が、何度も書いているように、メラ村では5年前まで携帯電話すらなかった。
もちろん、夏の放牧地である山奥にも当然、携帯の電波は届いていなかった。
唯一、冬、低地に下りた際だけは、携帯電話の圏内であったため、
彼は、知人の携帯電話を借りて彼女に連絡を取っていたのだという。
そして、その甲斐あって、ついに結婚までこぎつけたのだ、と。
なんとも心温まる良い話なのだが、ここで疑問が生じるのは、
10年前、Tさんのいる低地では携帯が使えたとしても、
奥さんの住むメラ村までは電波が届いていなかったはずではないか、という点。
それについては、実は、当時、メラ村には1台だけ電話があったという。
それは、村役場に設置された固定電話。
ブータン政府は、各自治体に最低1台の緊急用回線を引いており、
それが唯一、外界と連絡を取る手段だった、という。
(詳細は確認できなかったのだが、物理的に回線が引かれていたとは思えないので、
おそらく、衛星電話か何かではなかったかと推察されるが、未だ裏は取れていない)
いずれにせよ、彼は、放牧地から、この電話に対して電話をかけていた。
そして、彼女を呼び出してもらっていた、とこういう手筈だったわけだ。
が、これって、よくよく考えると、相当危険な橋を渡っている。
こんなもの、日本でかつて携帯電話がなかった時代に、
彼女の自宅に電話をかけて呼び出してもらう、あの「親バレ」ハードルの比ではない。
なんせ、もう、村中にバレバレなのだ。
彼はいかにも人の良さそうにはにかみながら語ってくれたのだが、
こちらとしては、とんでもない武勇伝を聞かされた後の、
ある種の高揚感のようなものがいつまでも抜けなかったのを覚えている。
メラ村の恋愛事情(もとい、携帯電話事情)、恐るべし…。
なにはともあれ、わずか2泊という短い滞在ではあったものの、
有意義な情報を仕入れることができ、大変に満足できる旅となった。
しかし、実は今回のブータン出張は、これでまだ前半戦が終わったあたり。
後半のサムツェ県訪問編も、なんとか年内に書き上げたいと思っているので、
どうぞ期待して待っていていただきたい。
(つづく)