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死は生まれて来た者の宿命で、必ず訪れる自然の摂理です。
私が支援をさせて頂いている、難病患者さんは、
その疾患の症例が少ないということであって、
「死」ということ自体は、どんな人にも自然に訪れます。
ですから、本来は、その人が神様から与えられた天寿を、
全うすることになるのですが、そう行かないのが、また人生であります。
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日本では、1日におよそ100人の自殺者があります。
1時間に4人以上が亡くなっている計算になります。
日本の主要な死因の一つに数えられています。
でも、自殺とはちょっと違う、でも、
自らが選ぶ死の方法が今、注目されています。
それは、「安楽死」であります。
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安楽死を考えるあたり、手法は主に、2つあります。
(ここでは、何らかの病気に罹っている患者さんと限定します)
元々の出発点は、「自らの自発的な意思」があることは
言うまでもありませんが、手法となると大きく2つに別れています。
1つは、患者さんに死に至る量の薬を投与する方法(積極的安楽死)と、
2つ目は、患者さんへの治療を行わない(開始しない、終了する)ことで、
最終的には死に至る方法(消極的安楽死)があります。
積極的安楽死は、多くの国が法律で禁じていますが、消極的安楽死は、
法には明文化はされていませんが、治療のごく自然な流れの中で、
本人または、家族等が妥当だと認める場合は、その方向で死を選択していると言えます。
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消極的安楽死には、いくつか問題があります。
(実際に亡くなるまで)苦痛が伴う場合、費用がかさむ場合、
家族や周りに相応の負担がかかるなど。
もちろん、メリットもたくさんあるので、消極的安楽死がいけないということではありません
一方、積極的安楽死にも、メリットとデメリットがあります。
メリットは、精神的、肉体的な苦痛から開放されること。
長期にわたる治療費や、それに付随して発生する経費が抑えられることなど。
デメリットは、残された家族や友人、医師や治療にかかわってくれた人々の精神面などです。
私も、長年の難病患者さんへの支援の中で、患者さんから、「早く死にたい」と語られ、
返す言葉に窮したことがあります。
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アメリカでは、積極的安楽死を法律で認めている州があります。
オレゴン州やワシントン州など、全部で5つの州です。
昨年の11月1日に、29歳の女性が安楽死を決行しました。
YOUTUBEなどで、その経緯や決意が語られ、
実際に行動に移されたことに、賛否が沸き起こりました。
彼女には、末期の脳腫瘍がありましたから、
闘病には大きな苦痛が伴うことなどが、
彼女を安楽死に向かわせた大きな要因だったようです。
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その後、南米チリの14歳の少女が安楽死を認めてほしいと訴える動画を投稿しました。
涙を流しながら、「疲れた」と話す彼女への同情から、私も涙が出てきましたが、
こうやって、世界の流れは「積極的安楽死」を容認する社会になっていくのかと思い、
戸惑いもあわせて起こったのです。
厳密に言うと、私的には「生まれる権利」は無いと考えます。(出産する権利はありますが)
しかし、生まれてきた者には、いつどこでどうやって死ぬのかを考え、
行動する権利はあるのかも知れません。それ自体、「生きる」権利と密接な関係にあるからです。
ただ、私が14歳の少女の動画に涙を流しながらも戸惑いがあったのは、国家や社会全体に大きな
変化をもたらし、その変化の一端には、国家に都合の良い「安楽死」が用意されるのではないかという
疑念からです。
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国家都合の安楽死は、第二次世界大戦下で行われた、ナチスドイツの障がい者への安楽死が有名です。
詳細は別として、これは安楽死ではなく単に殺人なのですが、当時は、それが良い行いとして、
社会全体に容認されていたのでしょうか、実際に安楽死という美名のもとに行われていたことに恐ろしさを覚えます。
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それぞれの「どう生きるのか」の問いに、他人がどうこう言うのはおかしな話で、それぞれが答えを見つければよい事。
それこそが、「人生」なのかも知れません。ただ、死ぬことは、生きることに直結する問題なので、国家や、他人に、
その選択権を渡してはいけないと私は考えます。自立して生きて行くということの中には、
精神的、経済的などの言葉がありますが、先ずは、「死ぬ権利」をきちんと頭の中で整理しておくことも、
「どう生きるのか」と同じくらい大切なことだと考えるようになりました。
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