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2015/02/24

皆さん、おはようございます。

今日は映画「マエストロ」鑑賞の感想を書いてみたいと思います。

映画としてというか、そもそもプロットは至って単純。
詳細は公式ページなどに譲るとして、
ストーリーで見せるような映画ではありません。
あらすじだけ追いかけて考えても、きっと感動はしないでしょう。
あくまでも音楽の素晴らしさと、
それを補佐し、解説する、登場人物の言葉の含蓄によって、
音楽の素晴らしさを体感できる映画であると思います。
一般的な意味での「映画としてのクオリティ」については、
私は専門家ではないので断定はできませんが、
決して保証できるところではない、というのが感想です。

私がグッときたのは、いずれも西田敏行扮するマエストロ、
天道徹三郎が発した言葉です。

「これが最初で最後かもしれないと思って演奏したことがあるか?」

これは、折に触れて私が考えてきたことです。
言い換えると、「私の最後の演奏とは?」という、
未来に対する想いでもあります。
そこには、生き方と同時に死に方についての考察も含まれます。
どんな死に方をしたいか・・・。

共演者には迷惑をかけてしまうかもしれませんが、
舞台で死ぬ、オケピで振りながら死ぬ、というのは
自分にとっては最高の死に方だと思います。
せめて迷惑にならぬように、と思うならば、
最後の一音、最後の一芝居を完了した瞬間の死。

面白い、やってみたいと思う死に方はこれだけではありません。
執行後に冤罪であったことを会見発表してくれ、と
言い残した後での冤罪による刑死なんてのもシャレているし、
護摩を焚きながら、断食断水で干からびて死ぬ、
なんてのも伝説が残せて面白い。
どれにしても、共通点は、畳の上、ベッドの上、
なんて普通の死に方はご免だ、ということです。

しかしどれであれ、私がその昔、
演奏という行為を始めてしまった以上、
必ず最後の演奏というものをする時が来ます。
それが一体いつなのか、目途が立っていない以上、
これがそれか、あれがそれか、と
疑い続けなければなりません。
その重さに、私は涙しました。

次の一言がこれです。

「音は一瞬で消えてしまうが、他者と響き合った音楽は永遠だ。」

瞬間的に私は、2014年4月12日、
ほわっとでの「コジ・ファン・トゥッテ」の25番、
フィオルディリージのロンドを思い出しました。
あれは確実にそれが起こった瞬間でした。
今でも25番を聴くと、冷静ではいられません。
くどいようですが、あれは私の渾身の作。
身を削り、心を傷だらけにして構想した、
大事なラブレターです。

唯一の残念は、8月8日のアヴェンヌ公演において、
その瞬間を起こせなかったことでした。
いずれ再演すると思いますが、
それは、その瞬間を求め続ける行為になると思います。
本番以前にも、いくつか奇跡が起きたのですから。

西田敏行がその言葉を発した瞬間、
心は動揺し、涙があふれました。
その前日に起きてしまった心の動揺が、
映画の力で癒された瞬間でした。

一般的職種の経験がほとんどなく、
また、その醍醐味を理解するような経験もしなかった男、
ということをおわかりいただいた上で、
以下の記述を受け取っていただけたらと思いますが、
なんと素晴らしい経験が出来る職種についたことか、
ということこそ、感動の種です。
それは種であり、感動の波の源泉でもあります。
感動が次の感動を呼ぶのです。

他の人はどうか知りません。
でも、私は他の職種、
ことにいわゆるところのサラリーマンを、
私がしていてもその感動はないだろうと思います。
何かの仕事で達成感くらいあるかもしれませんが、
世界一素晴らしい仕事をしている、というような
恍惚感は決して味わえないでしょう。

何の嘘も裏切りもない、
プロやアマという概念を超えた感覚です。
プロとしてどうなのか、そんな自信はありませんが、
少なくとも最高のアマチュアである自信はあります。

他人様に何かを伝えていく仕事、という意味において、
私の中で音楽家であることと僧侶であることは、
全くの同一であり、二足の草鞋ではなく、
まさに一足の下駄であって、どちらが欠けても、
それは私の仕事ではありません。
しかしそれらの仕事には苦痛も多く伴う中、
こうした醍醐味を味わえるということは、
何物にも代えがたい、自分へのご褒美なのです。

2015/02/24 10:38 | bonchi | No Comments