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こんにちは。根本齒科室の根本です。
このところ、人に言えない経営的なところでいろいろ悩みが多かったんです。
何で歯医者なんかになっちゃったんだ
何でこんな所で開業しちゃったんだ
ずいぶん悩んでいました。
な状態がけっこう続いていました。そこで
(『初心』に返ってみたい。少しは救われるかもしれない)
とちょっと思いました。
初心というと、高校出て、受験に失敗して浪人生で東京・阿佐ヶ谷に出てきた頃にまで遡ります。
下井草のTGBロッジ(現 下井草荘)!懐かしい!
高3の頃、某(王将)社長にそっくりな友達に勧められた一冊の参考書。
「有機化学特講(大西憲昇(のりたか) 玄文社)」
当時は剣道部を引退したばかりで、受験勉強のことは右も左も分からなかったオオバカな私でした。
そんなド底辺をさまよう私を、渡辺直人(仮名)は、社長のようなブラックな方法ではなく、根切丁重な方法でていねいに化学の実力を伸ばしてくれ、また勉強の取り組み方についても貴重なアドバイスをたくさんもらいました。
地の底を這うような成績だった自分。
校内テストで317番中317番という成績を本当に取った自分。
本当にこの本のおかげで、化学だけはいきなり校内番付に乗るほどになりました。
もちろんその年の他の科目はめちゃくちゃですから、入試はほぼ全部、記念受験。どこにも引っかかるわけがありません。
でも浪人するなら、「有機化学特講」の大西先生のところがいいな、と思っていました。
先生は、阿佐ヶ谷にTGBロッジという賄い付きの寮(杉並区下井草1-7-15)を持っておられ、先生の妹さんであるナラさんという方が寮母さんをなさっていました。寮生は予備校に通いがてら、週に1回、中野のTGB講義室という小さな講堂のような教室で大西先生の講義を受けることになっていました。
講義のレベルは高く、寮生以外にも多くの聴講生がおり、教室は活況を呈していました。
現役の頃は、理学部化学科ばかり受けていたのですが、そんなわけでこの寮に入って、周囲の寮生たちがほとんど医歯薬系の志望者ばかりだったこともあり、少しづつ影響を受けたのが思い出されます。ちょうど叔父が歯医者だったこともあり、自分もどこか歯学部でも引っかからないか、などと思い始めた一浪目でした。
この寮が、私の歯科医師のルーツの第一歩なのは間違いありません。
当時は用事で御茶ノ水駅前を通ると、「川向こうの突き当たり」が非常にまぶしく、かつ威厳たっぷりで近寄り難く感じたものです。
朝晩は賄いつきの寮ではありましたが、昼間は阿佐ヶ谷駅前の「牛めし松屋(当時は並一杯400円でした)」や、中野の「牛友チェーン」が腹を満たしてくれました。
牛友チェーンか・・・
もう20年来、記憶の中にしかない味覚や風景を再確認しに行こう。
原付(アプリオ;4JP1)も買ったし、ちょうどいい!
原付のこともちょっと話しておきます。その昔、晴れて東京医科歯科大学に合格し、亀有(足立区佐野)のアパート「ソフィア佐野」の居室を借りた私は、入学と同時に、亀有駅横のYSPに直行しました。で購入した3RY(ジョグスポ)が、結局大学時代を通じて貴重な足になりました。亀有から教養時代は市川、学部時代は御茶ノ水に「毎日」それで通っていました。
この2つは、ともに排ガス規制前のモデルで同じエンジンなので、馬力も規制後のモデルの倍くらいあり、燃費も半分くらいなのです。遅そうで早い、60kmまで即座にリニアに加速するかわいい奴なのです。あとはCDIを、ゲフンゲフン
おや、何の説明書だコリャ
シュッシュッポッポッシュッポッポ(‘A`)
小オペ中
アプリオのフロントは硬い硬いと言われますが、上の中心に近い部分は、太めのマイナスを、へーベルを入れて回転させるような動きで、簡単に外れてきます。一部が外れたら、1本細いマイナスを入れたまま、もう1本のマイナスで下の方も回転するようにこじって外していきます。割と乱暴に外しても、爪自体が丈夫なので大丈夫です。
おっと、シガソケまで(スマホケースダイソーマジックテープ変法www)
4JP1のくせに生意気な
大学時代は合計3回くらい盗難にあいましたし、切符も合計20点くらい切られました。6点の免停通知でも黙っとけばそのまま乗れて、9点の免停で講習(そのかわり乗れない日が30日くらい残ってしまう)、というパターンも許されることも学習しました。
風船もやらされたこともあり、飲酒がばれるぎりぎりで首の皮一枚で生き残ったこともありました(風船の調子が悪かった模様。しかしオマワリさんから「本官はあなたに今これに乗って帰っていいよとは非常に言いにくい。まことに申し訳ないが、今日だけは別の公共交通機関で帰っていただけないか。こちらのスクーターは責任を持って保管する」と丁重に、かつ悔しそうに言われたことも)。
そんな、歯医者になるころをほのかに夢見初めていた頃や、歯学部に入りたての頃の気持ちを一度トレースしてみよう。
そうすれば心の洗濯にもなるだろう。
となれば、まず行き先は、「牛友チェーン中野店」です。安っぽくて、量だけはメガ盛りな牛丼やカレーには、浪人時代にはお世話になりました。
といっても、中野店はつぶれてしまい、現在牛友チェーンの味を堪能できるのは、大井町駅前の「牛八(ぎゅうはち)」だけになってしまいました。
しかし、大井町駅前に原付を止めるのは、さすがに気がひけます。御茶ノ水の医科歯科大学なら、ガーデンパレス側の裏手の駐輪場は止め放題「でした」から、ここまで行ってから電車で大井町に行こう。
さっそく佐貫から御茶ノ水に向けて走り出しました。
つい先日も、水戸の「三越家具」という、三越百貨店とは何の関係もない激安店にもコイツで行ってきたばかり。燦然と輝く(訳ないだろ!)「龍ケ崎市」の白プレートw
まっすぐ医科歯科に向かうのも、やや趣に欠けます。
そうだ、足立区佐野の「ソフィア佐野」に寄るか。大学教養時代の帰り道を通って。
6号を上っていき、松戸から環七までは、当時の通学路でした。6号と環七がぶつかる青砥8丁目交差点は、初めて二段階右折でオマワリにつかまったところです。そのまま環七内回りを北上、ちょっと亀有駅北口を回ってびっくり!
なんてきれいに整備されたんだろう(南口はもっとすごいけど)!
昔では考えられないような大きくてキレイな店が立ち並び、町を行く歩行者の数が倍増しているのです!
あっけにとられながら、大谷田陸橋を超え、大谷田橋西交差点を、(二段階)右折します。
都内に入って非常に強く思ったのですが、日曜だったせいもあるのかもしれませんが、とにかく白バイが多い!1日で5~6台遭遇しました。こんなのは茨城では全く考えられないことです。だいたいが、二段階右折している原付なんて見たことがありません。
大谷田橋西を右折して、いきなり巨大なホームセンター「島忠」に衝撃を受けました!こんなのなかったぞ!大谷田橋西を右折してからは、本当に田舎の路地みたいな道で、店らしい店なんて「くるまやらーめん」まではほとんどなかったはずなのに!
しかし都民信用金庫のつぶれた後がそのままで残っていたのは、さすがの足立区クオリティ。
そこから先はさすがに路地っぽくなってきて、あー懐かしい、と思いつつ原付を走らせていたのですが、「ベニースーパー」の所まで来て、またまたびっくり!
なんと、「ソフィア佐野」以外にも、昔駐車場だった周囲が、ほぼ前面AMIXの物件だらけになっていたのです!こんなに単身者のニーズが足立区にあるなんて!足立区佐野の余りの発展振りに度肝を抜かれながら、心の洗濯第1幕は終了しました。
洗濯と言うよりも、以前の自分のイメージとのギャップに驚かされたのが正直なところです。
当時の足立区と言えば、女子高生コンクリート詰め殺人事件で有名なところでした。ちょうどソフィア佐野や中川北小の近辺です。学生の頃も、アパートの駐輪場「内」で何度も原付を盗まれたのですが、そんな殺伐とした雰囲気も影を潜め、道幅は広がり、店は増え、道行く歩行者も何倍にも増えていました。
洗濯第2幕は、佐野から御茶ノ水への通学路の再訪です。教養を終えて、専門課程に入ると、市川からお茶の水に教室が移ります。
あの頃は信号を嫌って、すぐ環七に出ずに、内匠橋を通って「斜めの道」を北千住まで向かっていたのですが、一瞬どこの橋か分からなくなるほど橋がきれいになっていました!しかも内匠橋西から西に伸びる道路が整備されて、まさかの2車線!
当時は臭かった綾瀬川の堤防沿いを南下しながら、真剣に浦島太郎に同情している自分がいました。ふと目を上げると、何と、西加平の交差点の手前に、白バイがいるではありませんか!こんな僻地にまで白バイがwww
しかも、元綾瀬警察署の跡地付近は、道路が太く拡張されていて、店も増えて活気がある感じです。昔はあんなところに人なんかほとんど歩いてなかったはずなのにw
そもそもあの斜めの道に白バイが通ること自体が、違和感を隠せません。
梅田交差点から先は、4号なので、そんなに変わり映えする感じではありませんでしたが、白バイがとにかくすごい。茨城では考えられない量です。あちこちで獲物を捕まえて、勝利のおたけび、じゃない、交通反則通告(青切符)しまくってました。怖い怖い。
外神田5丁目の次の信号を「二段階右折」すると、湯島聖堂と神田明神の間辺りに出ます。今は、昔の裏門のところはコーンでふさがれていて、工事中なのか、入れませんでした。もうひとつ先の入口のところが、駐輪場になっていました。
この辺のカオスっぷりは、今も昔も変わりません。
ここから入って右側が駐車場ですが、左側が駐輪場で、お約束のとめたい放題な感じです。
ここを抜けて、御茶ノ水駅側に行くのですが、敷地内にスタバができていたのと、通路が若干大回りになったのが変更点でした。厚生棟や保健管理センターの感じは、以前と同じだった用に思います。
ここから電車に乗って、大井町まで行きます。
大井町は、インプラントメーカーの㈱ブレーンベースの所在地でもあります。
また、駅の北東方面は昔ながらの商店街になっていて、「活気のある路地」といった様相を呈しています。
「活気のある路地」「商店街」昔はどこにでもある風景でしたが、今は残念ながら、地方では消滅してしまい、逆に都心ならではの風景と化しています・・・
そんなことを考えながら、牛八に足を踏み入れます。
牛友中野はビルの6階でしたが、ここは1階です。5人がやっとのような狭い店ですが、かつてメガ盛り特集か何かで何度もTVの取材が来ていたようです。
待つこと数分、着「丼」です
「味の薄い牛丼」「味の薄いカレー」決して美味しいとは言えないながらも、これが18の頃の記憶です。マズくてうれしい、へんな感覚でした。とくに牛丼は、薄めたすき焼きのような甘ったるい味で、最近の3大チェーンとは似ても似つかない味です。
そして、この皿のマークが、かつてこの店が牛友チェーンだったことを力強く物語ります。
一見の方が普通に食べるなら、カレーと焼き豚肉が半々の「スタミナカレー」なんでしょうが、自分の昔の記憶を、となると、牛丼の方なんです。「うれしいマズさ」を噛みしめながら、名残惜しく店を後にしました。
久しぶりの大量の糖質(米)が一気に胃袋に流し込まれたせいか、半端ない眠気に襲われました。でもそうも言っていられません。
行きは足立区からは環七~4号で来ましたが、帰りは、教養(1~2年)部の時代によく走った蔵前橋通りを、市川まで向かいます。
しかしここも、以前の1.5倍くらいに発展しています。新小岩には立派な高架道ができていましたが、登る勇気はありませんでした。
江戸川を渡って国府台に。ここも以前の1.5倍くらい栄えている感じです。以前のホームグラウンドですが、”佐貫慣れ”した目には、まったく違って活気に溢れ、都市の様にすら見えました。
「どこもかしこも、発展したなぁ」
医科歯科の教養部の入口に差し掛かります。何か立派なガードというか門のようなものができていて、侵入できそうにありません。昔はどこからでも入り放題だったのにw
江戸川向きに、脇道を里美公園の方に走らせます。向かって左手は、韓国料理屋さんやK-POP的な雑貨屋さんがいくつかありました。今は亡き叔父(歯18)によると、昔はいわゆるこの一帯は”朝鮮部落”で、ネコの皮をはいで三味線の材料にしている、とのことでした。私の在学中はそのようなことはありませんでしたが、今こうして見ると、やはり韓流的というか朝鮮半島的な雰囲気をかもし出す一角です。
里美公園の反対側に路地を曲がると、国際交流会館(外国人留学生の寮)と、古い合宿所があります。剣道部時代のキツイ思い出一杯の合宿所。大学時代、一度この辺に車を路駐してたら、何物かにパンクさせられていたことがあり、苦い思い出のエリアでもあります。ふと周囲をよく見ると金とか崔とか朴とか、あちら系の苗字の表札も多く、その辺の住民構成は叔父の頃とあまり変わらないのかなぁ、と感慨深く昔を思い出しました。
懐かしさ半分、寂しさ半分の気持ちで帰路に着きました。
とくに以前閑散としていたところや栄えていなかったようなところほど大きく発展しており、その落差を大きく感じました。松戸近辺など、道路も大きいのがたくさんできて立派になりました。江戸川べりの矢切の渡し近辺も、たくさん家が建ち、道路も立派になりました。
いっぽう、国府台の教養部から近くの中華料理屋さんは駐車場か何かに変わってしまったようで見当たらず、その辺は寂しく思いました。
佐貫に帰ってきました。
過去の記憶をトレースしてきた結果、大雑把なところはそのままの感じでしたが、細かいところは大きく変わってしまっていました。
いっぽう佐貫はといえばこの8年、駅前から少しずつお店が減っていき、駐車場が増えていくありさまです。
この辺の街づくりの差が出てくるところは、どうとらえたらいいのでしょう。
<おわりに>
あまりにもシンプルですが、大きな刺激をたくさん受け取って帰ってきたことは事実です。これらの過去の街も、高度成長期のように一足長に爆発的発展をとげたわけではないと思います。とくにここ20年のバブル崩壊~長期デフレだった我が国ですから。
それでも都心部近くなどは(とくに規制緩和や自由の拡大は格差拡大につながう側面も大きいが)需要がありつづけたことで、少しづつではありますが発展していったのでしょう。
いっぽう佐貫は、簡単に言えばベッドタウンです。その街自体が栄える動機に乏しいのです。ですから、それでなくても長期デフレと規制緩和で田舎ほど不利なのですから、受け身のままでは徐々に都市機能が衰退していくのは目に見えています。
何事もそうですが、一歩一歩の前進の積み重ねが、十年二十年で大きく実を結ぶのだと、いうことで、今回は勘弁してくださいw
明年(みょうねん)はもう少し真面目にやろうと思いますので、よろしくお願いいたします。
【今回のまとめ】
記憶の世界は止まったまま。依存しても成長しない。自らの足で前へ